”「文学」は心を豊かにする”についての一考察【追記あり】 #国語教育

【2021.1.4追記】
この記事の本旨は、基本的に国語教育関係者の発信内容を焦点にあてたものである。

端的に言えば、関係者の「文学は大事」的な発信を問題視する内容である。

よって、この記事で国語授業の”内容”には踏み込んでいない。

見てくださった教員関係者からご指摘いただいたので念のため。

 

 

【ここから本編】
はじめに。

 

私がブログやSNS(Twitter)で国語の問題について発信を始めたのは20208月である。

そもそも、私がこのブログを立ち上げたのは、ネット上の知見をより多角的に伝えることにあった。

2020年末の現在、インターネット上には数多くのコンテンツがあるが、よ~く探してみると、”なんでもある”とはいいがたいのが現状なのだ。

例えば、科学史上の大論争を引き起こした『二つの文化と科学革命』の著者C.P.スノーのWikipedia記事は、2008年に私が執筆するまで存在していなかった。「〇〇教育」の記事も、私が編集するまではまったく統一感がなく、内容も貧しかった。また、ガリレオニュートンのような科学系の偉人を解説する動画も、私がニコニコ動画に投稿した2016年まで存在していなかった。

www.nicovideo.jp

 

そんな私が、最近では「論理国語」をめぐって発信を続ける。なぜか。

 

私自身の求める「教養」の根幹が「論理国語」的な読み書き能力の向上にあると考えるからだ。

 

しかし、私の観測範囲でも、「論理国語」(的な国語教育観)への反対意見が今なお多い。特に、文学指導時間の減少に対するものが。

・本を読まない日本人が増えてしまう。

・日本人の心情理解力、想像力、道徳心が育たなくなる。

・日本の文化、伝統に無知な日本人が増える。

など。

 

私は2020年以降、”文学に対してはドライ”と公言している。

ただ、この手の主張自体には一定の理解を示している。

読解力指導の中心は国語の授業にあるだろう意味で高校の国語教育は推進されるべきだと思うし、国語教育の目的には道徳的要素や文化的要素の涵養も含まれると思うからだ。国際社会だからこそ自国のことをよく知っておく必要があるとも聞く。

(この点、もし語弊のある表現があれば私の国語力不足である)

 

ただ、私はそれを改善する手段を文学一本に求めることを疑問視する。

はっきりいう。

その手段は、文学でなくともよい。

 

読解力指導を身に着けたいならば、評論文でもよい。

道徳心の指導ならば、偉人や有名人の伝記や哲学書でよい。

文化・伝統を育むなら、歴史の授業や歴史評論でよい。

 

 

念のため。

私は国語の授業(文学を含む)でその手の指導が無意味とは思っていない。

それを唯一の手段であるように語ることの誤りを指摘したいのだ。

 

もしかしたら、彼らは言うのかもしれない。

評論も伝記も文学だし、歴史の原典にも文学作品があるでしょ?と。

 

しかしながら、彼らのいう「文学」の具体例に評論や伝記(あるいは非文学的文章)が入っているのを私は見たことがない。

私が目にするのは『走れメロス』『山月記』『羅生門』『こころ』『舞姫』のようないわゆる近代の定番文学教材の話ばかりであり、ときどき『源氏物語』『徒然草』『土佐日記』『論語』のような古典作品、『マクベス』『罪と罰』のような海外文学を見かけるくらいだ。

要するに、一般論として「文学」を語っている割に、そのサンプルが著しく偏っているのだ。

 

新課程の国語に反対する方々は口をそろえて「実用文の読解は大事」という。

しかし、彼らが具体的に語る国語の具体例は、決まって「文学」の話ばかり。

 

曰く、論文作成は高校段階でやる必要はない。(但し、産業界の要請あり)

曰く、高校生になれば実用文は誰でも読める。(但し、PISAの学力調査で指摘あり)

曰く、実用文推進派は文学作品をバカにしている。(ここはノーコメント)

 

そんな彼らの言説から、「評論も伝記も大事にしている」「実用文も大事にしている」と読み取ることは困難である。

少なくとも私には、彼らの言う「実用文は大事」的な主張は”枕詞”にしか感じられない。

もし、本心で「実用文は大事」と思っているのなら、『論語と算盤』でも『学問ノススメ』でも『沈黙の春』でも、上記のようなステレオタイプ的な文学作品とは異なる作品についてもバランスよく言及すべきと私は考えるが、いかがだろうか。

 

さらにダメ押しするなら、いわゆる文学にはエロ・グロ・ナンセンスが多分に含まれるものも少なくない。

なかには『バトル・ロワイヤル』のように現実世界の事件に発展したものもあるし、

そこまでいかずとも、『絶歌』や『ちびくろさんぼ』のように社会問題化した作品もある。

(詳しくはないが、こういうのを”文学の毒”と呼ぶらしい)

 

国語教材としてふさわしくない、というならば私も完全同意である。

私はそうした作品を国語の授業で扱えというつもりはない。

 

しかしながら、その手の作品だって「文学」のカテゴリに入るのは自明である。

まさか、教育上ふさわしくないから「文学ではない」とは言うまい。

ただ、国語教育で定義する「文学」との整合性をどうつけるのか?とは投げかけておきたい。

 

 

さて、ここで「読書は教養を深め、視野を広げる」的な言説について触れよう。

私はこの手の主張には基本的に賛成の立場である。

 

ただし、これを主張する者が文学ばかりを推す場合、話は変わってくる。

 

 

この話をする前に、「機会費用」の話をしておく。

もとは経済学の用語であるが、そう難しい概念ではない。

限られた時間内ですべき作業ABがあったとき、

Aに時間を割けば、Bに割くべき時間が減少する、そういう考え方である。

 

これを読書に適用するとどうなるか。

限られた読書時間を文学に費やせば、それ以外の読書の時間が少なくなる。

もっといえば、インターネットやほかの趣味に時間を費やせば、

文学作品を含めた読書の時間が減少することになる。

 

義務教育を終えた高校段階では、ある程度は生徒のやりたいことをさせるのが望ましいはずである。

(もちろん、反社会的なこと、倫理的に問題のあることは禁止・制限すべきだが)

 

そんな高校生に文学ばかりを勧めることが、どういう結果をもたらすか。

 

これは私の推測でしかないが・・・

間接的に、文学以外をやりたい生徒の時間を奪っているとは考えられないだろうか?

興味がないばかりか、興味があることを間接的に否定され、

逆に文学(読書)への興味を失う結果にはならないだろうか?

 

これは私の個人的な経験だが、私は中学以降、国語の授業以外ではほとんど文学には手を出さず、自然科学や社会科学系の本ばかりを読んでいた。一部の友人から文学を勧められても読まず、挙句に読書ジャンルの違いから変人扱いされたのは良い思い出である(いや、よくない)。経験上、興味関心が異なっている場合には興味関心を近づけなければ読もうとはしないし、読んだとしても不本意な感想を持って終わる可能性が高いだろう。

少々余談ではあるが、池上彰氏の著書『社会に出るあなたに伝えたい なぜ、読解力が必要なのか?』 (講談社+α新書)からの引用。

それでも小説がどうも苦手だという人には、実在の人物の生涯を綴る「伝記」というジャンルもいいでしょう。 子ども向けの伝記は(中略)偉人の「不都合な真実」が編集でカットされていますが、大人向けのノンフィクションの伝記は、人間の表と裏とを冷静に俯瞰することができます。

 

また、かりに高校国語の授業で文学に目覚めた場合はどうか。

唐突だが、フランスの社会学E.デュルケム『道徳教育論』の記述をここで引用する。

(私の大学時代のバイブルの1つである)

多様で揺れ動き、矛盾し合いながら、また相互に絡み合っており、いちいち枚挙するにはあまりに数が多く、多彩な性格を持った個性的人間――このような人間は、フランスの劇作家たちの描いた主人公たちの中には見当たらない。歴史上あるいは架空の人間に具象化されたのは、紋切り型の感情だったのである。(中略)我が国の作家たちが描いて見せる、単純で抽象的な人間感情の背景に、ゲーテファウストシェイクスピアハムレットに見るように、垣間見ても充分きわめることのできない、底知れぬ深淵を感知することは、極めて稀である。(p410-411

デュルケムの想定しているフランス文学観が、現代の日本文学にどこまで当てはまるかはわからない。ただ、のちの記述で、デュルケムは彼の言う”紋切り型の感情”から脱出する手段に、他国の文学ではなく科学教育(特に生物学)を挙げている。さらに、別のところで芸術(文学を含む)の道徳的意義についても言及されているが、科学教育や歴史教育に比べ軽い位置づけをしている。

この点を踏まえる限りでは、日本文学であったとしてもある程度当てはまっているのでは?と私は推測している。つまるところ、高校レベルの文学(に偏った高校生活)が「教養を深め、視野を広げる」に結びつくとは考え難い、というのが私の個人的見解である。

まして、先述のように、紹介される「文学」のサンプルが偏っているならばなおさらである。

 

 

総括しよう。

多感な高校生の興味関心を犠牲(?)にして文学を強制することで、本当に「教養を深め、視野を広げる」が成立するのか??

 

以上の見解から、私はかなり懐疑的である(エビデンスはないが)。

もし、この手の見解に詳しい方がいたら、ぜひぜひ”論理的な説明”をお願いしたい。

 あるいは、反論となるような文献などを紹介いただきたい。

あるいは素朴な感想でも。

「高校国語から文学が消える」という”誇大広告”について #論理国語 #国語教育

前回のブログが思ったほど反響がなかったこと、そして8月下旬からの仕事で多忙だったことからブログから遠のいていた。今回、8月のブログの延長で気になった記事を見つけたため、機会を失わないうちに発信することにした。

まずはこの記事から。執筆は杉山奈津子氏。

dot.asahi.com

私は文学というものに対しドライな人間なので、記事を書いた杉山氏の文学賛美にはほとんど共感できないでいる。例えばこれ。

 文学作品は、人間がもつプラスの面だけでなく、心の中にある「醜さ」「狡猾さ」まで扱います。たとえば芥川龍之介の『羅生門』では、「生きていくためには悪事を犯しても仕方がない」という人間のエゴイズムに迫っています。
 このようなことを、真正面から堂々と取り扱ってくれる教科は、国語のほかにないでしょう。文学作品は、生きていくうえで大切な部分に焦点をあて、人として成長を促す役割を担っているといえます。 

杉山氏は文学以外に人間のエゴに迫る術がないとお考えなのだろうか?

私の読書経験でも、中島義道ミシェル・フーコーなどの哲学者の著書は人間のエゴを生々しく記述し分析していたのを記憶しているし、日頃の政治・経済系のニュースでも人間のエゴを目にする場面は少なくない。「教科」という縛りで考えたとしても、英語や社会(地歴公民)の授業で扱う場面は多少なりと存在するはずである。

 

それに、そもそも高校国語に「人間のエゴ」を求める高校生がどこまでいるのか?

杉山氏の文章の後半では『羅生門』などの文学作品(定番教材)が「こうして後世に残っている名作は、残っているだけの理由があるわけです」と結んでいる。しかし、定番教材が残り続ける背景には、教科書会社が安定志向に走らざるを得なくなった側面のほうが大きいと私は見ている。

 

例えば、川島幸『国語教科書の闇』(新潮新書)によれば、この手の定番教材が残り続けてきた理由は「長期に亘り編集会議の議論を経ず、ノーチェックなまま教科書会社によって「自動的に」選定され、検定を合格してきたこと」にあるという(位置No.1753)。筆者が教科書会社に試みたインタビュー内容の一例を挙げよう。

私「X社で八〇年代に選定された『こころ』は、その後九五年の教科書でも採られています。この時の編集会議では、別の小説に換える話は出なかったのでしょうか」

A「全く出ませんでした。ほとんど自動的に決まったと記憶しています。」

(中略)

A「ただでさえ保守的な教材選定作業で、こんなに高校生の数が減る時期に新しい挑戦をすることは考えられませんでした。教科書の政策は時間も手間もかかる。それに途中で部分改定はあるけれど、新教科書は約十年使われます。こうした時代には、大胆な採録はどうしてもためらわれてしまいます。」 (以上、位置No.1449-1459)

 この著書を読んだうえでの反論の余地はあるだろう。杉山氏がこの手の情報収集をしたうえでどのような反論を頂けるのかは気になるところではある。

 

だが、今回のブログで私が訴えたいことはそこではない。

杉山氏が「高校国語から文学が消える」という題目をつけたことについてである。

ことは国語教育に関わるのだ。単なる言葉の挙げ足取りとは思わないでいただきたい。

 

杉山氏が危惧するように、新学習指導要領の改訂で高校国語における文学読解指導の時間が”減る”可能性は高い。高校一年時の必修科目「現代の国語」「言語と文化」(各2単位)を履修した後は、「文学国語」(4単位)を選択しない限り国語の授業で文学に触れる機会が著しく減少することになる。そして、多くの高校では「文学国語」を履修せずに「論理国語」(4単位)を選択するようなカリキュラムを作成していると聞く。現行課程で2年時以降、「現代文B」(4単位)の約半数の時間を文学鑑賞に充当できた点を踏まえれば、「文学が消える」と危機感を煽る言い方をしたくなる気持ちもわかる(共感はしないが)。

※古文・漢文についてはここでは考えないこととする。

 

しかし、前々回のブログで述べたように、「文学国語」との選択になっている「論理国語」との両立はカリキュラム上は可能である。それにもかかわらず「論理国語」のみのカリキュラムで決断した責任は、情報の錯綜はあれど現場の国語教師にある。新課程で「論理国語」「文学国語」を実施することが決定事項となったこのタイミングで、国語教師に何かしらの提案をせず、「論理国語」賛同者に向けた批判をしても状況がよくなるとは考えづらいのだ(愚痴ならばともかく)。

まとめると、彼女の記事の問題点はこうなる。

  • 新課程で「文学国語」より「論理国語」を優先する決断をしたのは、(文科省にも責任はあるが)現場の国語教師である。それにもかかわらず、国語教育関係者への提案をするのではなく、新課程を作成した文科省(そして論理国語推進派の人々)を暗に批判するだけの記事に終始している。
  • 上記の目的のためだけに、「高校国語から文学が”消える”」という正確性に書く表現で誇張している(ことばの教育に関する記事にもかかわらず)。

 

私が彼女の立場で高校の文学指導の充実を望むなら(ついでに、「論理国語」に出てくる高校のレポート指導が不要と思うなら)、

各学校は2年時の「論理国語」履修をやめ、「文学国語」を選択せよ

のような具体性のある発信をするが、それではだめなのだろうか??

(これに対しては、大学入試を踏まえると「文学国語」優先では保護者の支持を得られない、という懸念があるのを聞いたことがある。しかし、杉本氏やこれまで取り上げた新課程国語への批判者の意見に本心で賛同するのであれば、文科省に物申すのと同時に”「文学国語」で大学入試に対応する指導をします”と保護者を説得するような発信をするのが筋だと考える。筆者はどちらかといえば保護者に近い立場なのだからなおさらである。)

 

 

付け加えておくと、国語教育におけるこの手の主張は杉山氏が初めてではない。

有名どころだと、文學界 (2019年9月号)の特集「『文学なき国語教育』が危うい」が挙げられよう。

books.bunshun.jp

しかし、私の認識では、この手の特集に関わった方々は総じて事実関係の確認が甘い。

学習指導要領の確認も、推進派の主張の引用もほとんどしない。

断片的な情報を鵜呑みにし、まともに裏を取らずに発信する。

(国語教育の専門家ではない私でもその程度の裏取りはする)

 さらに、それだけでなく、文学鑑賞の時数減(ゼロではない)を「文学が消える」「文学なき国語教育」のように誇張して状況を煽り立てる。

そして、文科省や論理国語推進派を暗に批判しながら、直接の当事者である国語教育関係者に対して現実的な提案をしない。

 

辛辣な表現で大変に恐縮ではあるが…

彼らはほんとに「ことばの専門家」としての自覚があるのだろうか??

そう言いたくなるのが私から見た現状である。

 

 

本音を言えば、国語教育の専門家ではない私にとって、高校の国語教育がどう変化するか自体は重要ではない。

しかしながら、学業の根幹であるはずの国語についての議論で空回り(に見える状況)があまりに続いている。国語教育関係者から今回のブログのような発信があれば別なのだが、現状では賛否はあれど、”では、現状をどう変えるのか”まで踏み込んだ発言が少なすぎるのだ。挙句の果てに「小説を読まない者は非教養人」という発言まで飛び出す現状は、当事者でないにもかかわらず危惧せざるを得ない。

 

私の本ブログにおける方針を再掲し、本稿を締めくくりたい。

”私は文学にさほど興味はないが、文学は重要だという者の権利は全力で守る。ただし、文学以外の書物を好む者の権利も同様に守れ”。(元ネタ

 

 

 

 

最後に、少しばかり情報提供を。

まずは今回取り上げた杉山氏の著書から(これから読む)。 

批判の対象とさせていただいた以上、対価を払うのが礼儀だと思うので。

 

それから、国語関係学会の要項および動画。

最近はコロナウィルスの影響で学会関係者によるオンライン会議が増え、専門的な議論に直接参加できる場面が増えてきた。その中で有益と思われる情報も得られたのでいくつか紹介する。特に2つ目のリンクにある国語教育のトゥールミンモデルは参考になるのではないか。

bungaku-report.com

www.jtsj.org

nikkokug.org

www.youtube.com

 

非教養人による「文学と論理の二分」についての考察 #論理国語 #国語教育

前回のブログ『論理国語は「本が読めない人」を育てるのか』は新課程の国語教育(主に論理国語の存在)があたかも「本を読めない人」を育てるかのような主張に反論することが目的だった。そしてそのついでに、(高校国語での文学授業自体には反対しないものの)文学は教養の専売特許ではないとも主張した。はてなブックマークTwitterではそこそこの反響があったようだが、肝心かなめの国語教育関係者にどこまで響いているのかは未知数である。

 

実のところ、前回のブログは新課程の国語教育そのものに賛否や意見することを意図していなかった。新課程の国語(特に「論理国語」「実用文」)に粗雑な批判を加え、その文脈で「実用文しか読まない者」を「非教養人」という否定的なラベリングをして結論付ける。そんな記事が投稿されなければ、私はこのようなブログを書かずに済んだのである(筆者がどれだけ文学の優位さを説き、国語教育に批判を加えようとも)。

 

ところで、前回のブログ公開後、私の記事や関連するトピック(批判元の記事を含む)への反響の中に、

・新課程への変更で論理的な読み書き能力は身につくのか

・現場の国語教師にどこまで可能なのか

という声が数度見られたことにある。批判の対象とさせていただいたような記事が出てくる背景に、新課程による国語教育への不安があることくらいは素人の私でも容易に想像できる。それゆえ、新課程の国語教育への不安を軽減することが、前回のブログを公開した者の責任だろうと考え、僭越ながらも前回の続編(?)を書くこととした。

 

とはいえ、国語教育の問題は非常に多岐にわたり、その全貌をつかむことは困難を極める。よって本稿では、観測されたいくつかの反響のうち、

・論理(実用文)と文学は分断できない。文学にも論理はある。

・現在の国語教師に論理の指導はできるのか。他教科に任せたほうが良いのでは?

2種類の見解に焦点を当てて論を試みる。かなりの長文とはなったが、その割に「国語で論理の指導をするための有効な方法は何か?」までは踏み込んでいないので、その点だけは先にご了承いただきたい(要望があれば、後日、参考になる情報源くらいは提示しようと考えている)。

 

なお、ブログ発信者としての私の真意は、”私は文学にさほど興味はないが、文学は重要だという者の権利は全力で守る。ただし、文学以外の書物を好む者の権利も同様に守れ”である。今回、国語教育について言及するのも、究極的にはこの点を目指すものであることを念頭に入れて読んでいただければ幸いである。

 

 

 

1.「論理国語」「文学国語」のような科目の分断は必要なのか

 

”必要”というのが私の立場である。

正確には”厳密な線引きはできないが、教育上の便宜で分けるべき”である。

以下に詳細を述べよう。

 

1-1 科目分断を問題視する根拠は何か(日経新聞記事より)

この件について、まずは2科目への分断を批判する側の見解を確認しておこう。実際は論者によって微妙に言い回しが異なるのだが、今回は小倉孝誠氏が日本経済新聞に寄稿した記事を拝借する(リンクは日経新聞の有料記事だが、無料会員登録で閲覧可能)。

 

現⾏の選択科⽬「現代⽂」がこの2科⽬に分けられる形になるのだが、そこには論理と⽂学が全く異なるもの、時には相反するものだという暗黙の認識が透けてみえる。思考⼒や判断⼒は論理の領域であり、想像⼒や情緒にうったえるのが⽂学だ、という⼆分法である。しかし科⽬や教材のレベルで、論理と⽂学を明確に分けられるとは思えない。⽂学作品を分析し、解釈することもまた論理的な作業なのだから。⽂学界や関連学会からは、これが⽂学の軽視につながるという危惧が表明されたが、本質はそこではない。「論理国語」では「論理的な⽂章」「実⽤的な⽂章」を扱い、「⽂学国語」では「⽂学的な⽂章」を扱うことになる。このような科⽬と教材の細分化は思考⼒、判断⼒、表現⼒などを総合的に育むという国語科の⽬標にそぐわないことが問題なのだ。すぐれた⽂章ほど論理と⽂学、また様々な知の領域と横断的に関わる。複雑化する世界を理解し多様な⼈々と交流するためには、論理と⽂学という危うい分断を超えた国語教育が求められる。

www.nikkei.com

 

「科⽬と教材の細分化は思考⼒、判断⼒、表現⼒などを総合的に育むという国語科の⽬標にそぐわない」という小倉氏の認識に私も完全に同意見である。そして、「文学作品を分析し、解釈すること」を”論理的”とすること、すぐれた文章ほど論理と文学、またさまざまな知の領域と横断的にかかわる」のも基本的には同意である。

 

ただし私は、彼のいう「文学作品を分析し、解釈する」ための”論理”の身をかなり懐疑的に見ている。そしてそれゆえに、彼の「文学と論理を二分することの弊害」(意訳込みだが、以下はこれで統一する)を甘受してでも分断すべき側に立っている。少々長くなるが、節をまたいで詳しく述べよう。

 

 

1-2 ”文学の論理”と”一般的な論理”は同じか

「共通部分はあるが、同じではない」これが私の立場である。

 

そもそも近年、国語教育で”論理”が強調されるようになった理由は、児童・生徒・学生の読み書き能力の課題が浮き彫りになり、それが長らく改善されてこなかったからだと認知している。”論理”と称する以上、それは筋道さえ間違えなければ誰でも同じ見解になるものでなければならないし、そうでなければ相手に伝わらない(歴史的にも、それが論理学の始まりだったはずだ)。

 

したがって、国語教育で教えられるべき”論理”も、基本的にはそれに準拠したものでなければならない。以下に、まずは”一般的な論理”の例を挙げる。

 

1

「すべての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」

 ⇒ 「ソクラテスは死ぬ」

2

「鳥類はすべて空を飛ぶ」「ペンギンは鳥類である」

 ⇒ 「ペンギンは空を飛ぶ」

3

「加藤さんはご飯を食べなかった」「ご飯は食事である」

 ⇒ 「加藤さんは食事を食べなかった」

 

1はともかく、例2が誤りであることは明らかである。とはいえ、論理の筋道(推論)に問題があるのではない。前提となる「鳥類はすべて空を飛ぶ」が誤っており、だから結論となる「ペンギンが空を飛ぶ」という誤った結論になるのである(ただし、生物学の知識が前提となる)。

 

また、例3も(少々わかりにくいが)論理的に誤りである。前提となる「加藤さんはご飯を食べなかった」「ご飯は食事である」が正しいとしても、「加藤さんはパンを食べました」などの結論になる可能性が残されており、その意味で結論「加藤さんは食事を食べなかった」は誤りである(本当に食べていない可能性もゼロではないが)。

※参照:ご飯論法 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E9%A3%AF%E8%AB%96%E6%B3%95

 

文学における論理の話に戻ろう。”文学における論理”が、今述べた”一般的な論理”と完全一致するならば、両者を二分すべきとする私の主張は撤回するしかなくなる(繰り返すが、私も「文学と論理を二分することの弊害」自体には同意している)。

 

ただし、本節の冒頭に述べたように、私は”文学の論理”は”一般的な論理”と異なるものとみなす。

 

実際、文学的文章の中では、いわゆる一般常識が通用しない場面、そして独特な表現が多々出てくる。動物が人間の言葉を発したり、人間が道具なしで空を飛んだり、動物になったりという非現実的な前提・因果関係が成立するし、唐突に「激怒した」と叫んだり、主要人物の結末がぼかされたり、といった因果関係の追いづらい表現も多々存在する(ちなみに前者の元ネタは『走れメロス』、後者は『羅生門』のつもりである)。前者のような非現実的な前提は独特の世界観を生み出すためのもの(それが文学の魅力の1つ)だし、後者も読み手の感情に訴えるレトリックなのだから、文学としては当然である。

 

個人的には、これらを”文学の論理”に含めてよいのか少々疑問ではある(論理かどうかはともかく、学習指導要領解説の「文学国語」には指導項目として明記されている)。しかし私は、文学的文章におけるこうした表現・技法は、少なくとも要請されている”一般的な論理”とは異質のものという立場に立つ。そしてその立場から、「文学にも論理がある」という理由だけで「文学の授業でも(一般的なものと同等の)論理の指導は可能である」と結論付けるのは完全なミスリードであり、その意味で、”文学の論理”を他の論理と同列に扱うような主張にも懐疑的にならざるを得ない(小倉氏もさすがにそこまで言及はしていないが)。

 

以上より、一般的な論理と文学特有の論理を線引きするという”教育上の便宜”として、一般的な論理を扱う科目(「論理国語」)と文学的な論理を扱う科目(「文学国語」)は分けられるべきである。反論の余地はあるだろうが、今後はせめて、文学における”論理”の中身を吟味してから論を展開していただければと思う。

 

 

1-3 補足:分断をされた科目を統合するための”越境”

本項は補足である。ここまでの文章を読んでも「いや、おかしい」と思った方は目を通していただきたい。

 

私は文学的文章の中に一般の論理で説明できる場合があること、いわゆる評論文の中に論理的におかしな文章やレトリカルな表現が含まれる場合があることを十分に認知している。実際、一般的な論理としたものの例には「木炭とダイヤモンドは同じ物質」「光の速度は有限」「コーヒーカップとドーナツは同じ図形」のように、初学者の直感に反するものもそこそこ存在する(もちろん論理的・学問的には正しい)。

 

しかしそれでも、生徒(場合によっては教師)が両者の論理を混在して混乱しないよう、科目という形で便宜的に分けるべきだと私は言いたい。教材となる文学的文章や評論文自体の意図(執筆者の意図)はともかく、授業者としては読み取るべき主張、習得すべき技能があるはずであり、特に論理に関しては集中的に学ばせることを学習指導要領は要請しているはずである。その観点でいえば、「文学と論理の二分」を嫌がる者の主張は、究極の読書を目指すがあまりに欲張っているようにも見えるのである(そして多くの場合、論理的な側面が中途半端となる)。

 

そもそも、学習指導要領解説の「文学国語」の記述を読む限り、「文学国語」という科目は”論理”についての指導を特に禁止してはいない。つまり、文学作品の背景や文化・思想などと併せて”論理”を教えればよい。一般的な論理を「論理国語」の枠内で扱い、文学特有の論理は「文学国語」で扱う。前項でも述べたように、学校側が注意を払っていれば両科目の同時履修さえ可能だったことも思い出してほしい(目的に併せた指導の不自由さや担当教師の個人差はあるかもしれないが)。

※ 国語科の新学習指導要領:https://www.mext.go.jp/content/1407073_02_1_2.pdf

 

そして、幸いなことに、現在の教育情勢ではいわゆる”教科(科目)横断”が容認されつつあると聞く。高校物理で三角比やベクトルを教えたり、現代社会の科目でフランス革命を扱う程度の”越境”は教師の裁量で許されると耳にする。「文学国語」で一般的な意味での論理を教えたい、「論理国語」で文学的な言い回しを扱いたいと思うなら(それが教育上有益だと考えるなら)、個々の教師や学校の責任で”越境”すれば済む話だと思うのだが、違うのだろうか?

 

 

 

2.論理は国語ではなく、他教科で学ばせるべきか?

 

こちらについては、「他教科であってもよいが、基本的には国語でやるべき」が私の立場である。

ただし、後述するが、「国語で有効な論理指導が定着するには長い時間を要する」とも考えている。

 

すでに1節にて、「論理国語」「文学国語」の分断に必然的な意味があることを指摘した。それでも両者の分断に疑問を感じるとすれば、その原因は分断そのものではなく、「現在の国語教師に論理の指導はできるのか」という点に尽きると思われる。「論理の指導は他教科で指導すべき」のような主張もその延長線上であろう(これ以外の疑問点があるだろうことは否定しない)。

なお、こちらも詳しい文脈を知りたい方のため(少々古いが)雑誌の記事を掲載しておく。ただし、1節の「文学と論理の二分」と異なり、この記事の文脈が本節の論の展開に影響することがないため、ここでの具体的なコメントは控えることとする。

dot.asahi.com

 

 

2-1 論理の指導を他教科に委ねると何が起きるか

 

私が国語でやるべきとした理由は明解である。端的にいえば「論理的な読解指導の責任を負うのは、最終的には国語教師だから」である。これについては具体的に記述したほうがイメージがつかめると思う(私のブログ発信者としての限界でもある)ので、当面「契約書の読解指導」に限定して話を進める。

 

例えば、契約書の読み方を公民科に委託したとする(新課程での必須科目は「公共」になるらしい)。公民科には公民科の目標(社会的な見方・考え方、国際社会への対応など)があり、その授業内容はそれに沿うものに限定される。具体的には、J.J.ルソーの社会契約説に結びつけて契約書の問題点を指摘する、日本国憲法や労働三法と比較読解する、賃金や税金の考え方を応用して収入・支出のシミュレーションをする等のアプローチが考えらえるだろう(こちらも専門外なので、授業として有益かどうかまでは判断できない)。

※ 公民科の新学習指導要領: https://www.mext.go.jp/content/1407073_04_1_2.pdf

 

あるいは、契約書の読み方を情報科に委託したとする。情報科の目標は情報活用力やネットモラルなどであるから、こちらでは契約書の種類自体も限定される。種類としてはネット通販や情報機器の購入、著作物の扱いくらいだろうか。読解に限定しなければ、Word等で契約書を作成するなどの取り組みもできよう(こちらも専門外、同上)。

情報科の新学習指導要領: https://www.mext.go.jp/content/1407073_11_1_2.pdf

 

これらの指導案がより専門家の手で綿密なものになれば、論理的文章の読解指導としてもある程度の成果を見込めると思われる(もちろん要検証である)。しかし、このような指導を行ったとしても、国語教育の立場からは大きな問題点が出てくる(契約書の読解に限定したため、安易は一般化もできないが)。本節の初めに述べたように、この問題は方法論以前に教科間の責任問題だと考えるからである。以下に3点を列挙する。

  • 「論理国語」(そして新テスト)で想定されるような、例えば内容の要約や比較(ついでに文中の語彙の確認、一部空欄にした場合の推測)を他教科に求めるのは無理筋である(目的が合致しない以上、強制はできない)。
  • 仮に他教科で有益な読解力指導ができたとして、その指導方針が国語科のそれと合致する保証はない。
  • 読解力が身につかなかった場合のフォローは結局国語科で負わねばならない。少なくとも新テストは「国語」の名目で読解問題を出題するのだから、その指導が不十分だったとしても他教科に責任を負わせるのは筋違いである。

 

他教科でどれだけ有効な読解指導をしようとも、最終的には国語科で指導の責任を負わねばならない点に注意が必要である。1-3で述べた”越境”もある程度認められているのだから、学校単位で、授業担当者同士で打ち合わせておけば、(論理的な文章読解力向上の意味でも)有意義な教育を提供できる可能性を秘めていると思う。

 

この項の最後に、多少の”苦言”を述べさせていただく(”強い違和感”どころではない)。

「論理的な文章読解指導は他教科で」という主張は、国語以外の教師への不遜でしかない、ということだ。

 

前回登場した榎本氏も主張していることだが、近年の教育現場はきわめて多忙である。OECDなどの調査からも明らかなように、日本の教育現場は労働時間・教育予算の両面で劣悪を極めている。そのような現状で科目編成が大きく変わり、限られた中での授業準備をしなければならない。すでに疲弊している教師も多いことだろう(そのうちの何人がこのブログを読んでいるかは知らないが)。

 

ただ、国語教育についての議論なので国語教師にフォーカスされがちだが、国語教師が多忙であるように、他教科の教師も多忙なのである。まして国語科は、充当可能な時間数に比較的恵まれた教科である。時間数の少ない他教科に、国語でやるべき(その教科内では必須ではない)とされた事柄に時間を割かせること自体が極めて無礼な判断であることは自覚しておいたほうがいい(1-3の”越境”の話のように合意があれば別)。そして、もし仮に「論理の指導は他教科に丸投げし、国語教師は文学の読解(古典含む)に専念すればよい」などと考えているのであれば、これまでの議論から”責任転嫁でしかない”と言わざるを得ない。

 

 

2-2 高校国語「分冊教科書」の失敗から学べ

 

前項では他教科で論理指導を行った場合をシミュレーションしたうえで、その問題点を指摘した。端的に繰り返すと、「論理的な読解指導の責任を負うのは、最終的には国語教師である」だ。

 

本来なら、今後述べるべきは「では、新課程の国語で論理の指導をするための有効な方法は何か」についての考察なのかもしれないが、それは専門家である先生方で議論することであり、専門家ではない私が立ち入るものではないと考える。しかし、ここまで論を展開してきた者の義理として、それに代わる材料を知りうる限りで提供したい。

 

本稿で紹介するのは、論理指導を高校国語で行うことの困難さである。以下に述べるが、「国語で有効な論理指導が定着するには長い時間を要する」がここでの私の主張である(困難だからやめるべき、ではない)。

 

実は、戦後間もない1950年頃の学習指導要領では、高校の国語教科書はまとまった1冊ではなく、「言語編」と「文学編」に切り離された構成だった(科目という形ではないものの、新課程の「論理国語」「文学国語」に意味合いとしては近い)。そして、高校の国語授業では、2冊の教科書を有機的に組み合わせながら授業展開することが求められた(学習指導要領が法的拘束力を持ち始めたのもこの頃である)。このような教科書構成は当時の国語教師からも不評であり、のちに学力低下が問題視されるようになったこともあって、1950年代後半には1冊の教科書に戻されることとなった。国語に限らず、1950年代の教育課程上の多くは野心的だが未知数な試みが多く、のちの日本教育史系の書物では”失敗だった”と評する本が圧倒的である。

 

注目すべきは、その失敗の詳細である。実は、この件について詳細に分析した書物は驚くほど少なく、私が見つけられたのは幸田国広著『高等学校国語科の教科構造』(渓水社2011年)だけだった。以下、この本に書かれていた経緯を箇条書きで記す。

  • 1950年代当初、国語教師たちは「言語編」「文学編」に分かれた2冊の教科書(以下、「分冊教科書」)を教材に試行錯誤で授業を行った。教育雑誌『実践国語』(1952年のもの)には分冊教科書の理念に沿ったすぐれた実践事例の記録が残されているものの、そうした実践例は稀有であり、当時の伝統的な教育観に根差した批判的な意見(言語と文学を二分すべきでない)や、分冊教科書の影響を受けなかった古典分野の実践事例が多数を占めた(p132136)。
  • 分冊教科書「言語編」の構成は出版社によりまちまちであった。当時の国語教師の多くは、言語的な解説文を拾いだして扱い、伝統的な読解指導によって授業することが多かったようである(文法や文の書き方自体の扱いは不明)。また、「文学編」でも伝統的な読解指導がそのまま継続された。両方の内容を1冊にまとめた「総合教科書」が1952年以降に出版されるようになるとそちらのシェアが大きくなり。1955年以降の分冊教科書のシェアは5割を下回り、1958年には分冊教科書自体が発行されなくなった。(p104115
  • 当時および後世の研究者の分析によれば、「言語編」「文学編」の分冊は当時の伝統的な国語教育観を見直すポテンシャルを持っていた。しかし、当時の伝統的な国語教育観との差があまりに大きく、また全体として自らの国語教育観を自己変革しようとする者も少数にとどまり、分冊教科書の消滅とともに変革を迫る実践自体がみられなくなった(p149157)。

※ 幸田氏の著書へのリンク:

https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%A7%91%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%A7%8B%E9%80%A0%E2%80%95%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8D%8A%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B-%E5%B9%B8%E7%94%B0-%E5%9B%BD%E5%BA%83/dp/4863271581/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B9%B8%E7%94%B0%E5%9B%BD%E5%BA%83&qid=1597808725&s=books&sr=1-3 

これだけ見ると、新課程に伴う科目編成に現場教師が対応できる見込みは絶望的なように見える。当時の国語教師は、粗削りゆえの課題はあれどポテンシャルを秘めた教材を手にしてなお、旧来の教育観に固執し、教科書会社側を断念させるのに至ったのだから。

 

それでは、この問題について国語教師の意識改革は(困難どころではなく)不可能なのか?

先ほどの箇条書きの中に、「当時の伝統的な国語教育観との差」についての記載があったことを思い出してほしい。これは裏返せば、「教育観の差が大きくなければ、意識改革は起こりうる」、そして「ゆっくり時間をかければ意識改革は可能である」を意味しているのではないか(少々雑な推論だが)。

 

実際、幸田氏の著書を読み進める限り、分冊教科書ほどではないが教科書を通じての意識改革が進められているようである。「論理国語」とは話がそれるが、簡単に確認しておきたい。

 

  • 「現代文」「古典」の分割 ⇒ 徐々に受け入れられるが、一部では今なお批判の声がある。(前項の小倉氏が「論理」「文学」の二分に反対するのに似た反発だろうか?)
  • 評論文の定期的な刷新 ⇒ 評論文には鮮度が求められるらしく、今なお継続。ただし、自然科学系の評論は国語教師の判断で飛ばされることが多いとか。
  • 文学教材の定期的な刷新 ⇒ 一部の刷新しなかった教科書が売れ続ける。『羅生門』 『山月記』のような定番教材が登場するのはこれ以降になる。
  • 自由選択科目「現代語」「国語表現」 ⇒ 「現代語」は不評で、次の課程で引き継がれることなく消滅する(シェアの割合不明)。 「国語表現」は4割程度のシェアを得、今回の学習指導要領にも残される。

 

こうしてみると、論理に関する国語教師の意識改革には少なくとも1020年スパンの地道な努力が必要ではないかと感じる。国語教育の関係者ではない私が言うのも無責任かもしれないが、「困難だがやるしかない」(やらなければいつまでたっても変わらない)と言っておきたい。

 

個人的には、少なくとも今からの10年間で国語の先生方には尽力していただきたいし、できることなら精力的にその実践内容を公開していただきたいと思う(私のためでなく、同じく精力的な準備をされている同僚や研究者のために)。2020年となった今、インターネットで簡単に情報発信・収集できるようになったし、書籍の流通もスムーズになった。1950年代の失敗例から「一度失敗しているのに、似たようなことを繰り返すのか」と捉えるのではなく、「一度失敗しているが、今は情報収集する環境が大きく変わった」と捉えていただきたいと僭越ながらお伝えしたい。

 

 

 

3 有効と思われる文献の紹介(次回予告)

 

 今回は前回の記事の延長で、「文学と論理の二分」と「論理指導は国語以外で」の2つに反論を試みた。この2つについても私の観測範囲では表面的な主張ばかりが目立つので、今後の議論のたたき台くらいにしていただければ幸いである。

 ここまでの議論から「国語で論理の指導をするための有効な方法は何か?」に言及しないことに違和感を覚える方もいるかもしれないが、私にできることは知りうる限りの情報提供をすることだけである。後日、別記事で紹介するのでお待ちいただきたい(日頃の仕事があるため、12週間ほどかかるだろう)。

 最後に、前回そして今回のブログを執筆した本意を再掲しておく。

”私は文学にさほど興味はないが、文学は重要だという者の権利は全力で守る。ただし、文学以外の書物を好む者の権利も同様に守れ”。(元ネタは以下のリンク参照) 

ja.wikipedia.org

「論理国語」は「本が読めない人」を育てるのか? #論理国語 #国語教育

たまたま読んだこの記事に強い違和感を持った。私の観測範囲では、この記事に批判的な見解がほとんどみられないため、僭越ながらブログとしてまとめてみた。(10年ぶりのブログである)

 

diamond.jp

 

 先に断っておくと、私はこの記事の見解には総じて批判的だが、高校の国語で文学を読ませる意義そのものは理解している。ただし、私は文学についてはかなりドライなところがあるため、文学を愛好する方にはかなり違和感のある文章になるのではないかと危惧する。このブログを読まれる方がどれだけいるかわからないが、この点についてはご容赦いただきたい。 

 

この記事の要点を私なりにまとめるとこうなる。

  • 学習指導要領の新課程で「現代文」に代わり「論理国語」(実用文中心)と「文学国語」(文学中心)の選択になる。多くの高校で「論理国語」が選択されることが予想され、高校の国語で文学に触れる機会が減る。
  • 記事の発信者、榎本博明氏によれば、こうなった背景には、まともに文章の読み書きができない中高生・大学生が増えたことにある。氏はこの件で、「わざわざ高校でやることだろうか」と付け加える。
  • 新課程の移行により、今後は文学・評論に親しむ教養人と、実用文しか読まない非教養人に分断される。

 

 

この記事は榎本博明氏の著書『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)が下敷きになっている。この本は国語に限らず、近年の教育動向に教育現場が疲弊していることを問題提起しており、その意味で、この記事の意図は「新課程国語教育の実学志向への警笛」と読み取るのが正しいだろう。

なお、本文中に述べられている「実学志向」の中身は

  • 駐車場の契約書や会議の議事録の読み方、商品の取扱説明書の読み方

であり、以上の点を踏まえ、以下の4点を指摘したい。

 

 

1.高校で「実用文」の読解は”不要”か

 そもそも、榎本氏が問題視するような「実用文」が登場した背景は何か。直接には2020年度(今年度)から実施予定の新テストにあるだろうが、その背景にはPISAの学力調査があるとみてよい。新テスト問題で話題になった契約書・説明書の問題はPISAの学力調査においても登場するからだ。

 PISAの学力調査においては「数学的リテラシー」「科学リテラシー」とともに「読解力」が調査されているが、「読解力」については他の2つ以上に芳しくない成果が続いている(それでもOECD加盟国の平均以上ではあるが、それで納得する教育関係者はいないだろう)。ここでそのデータを詳細には延べないので、気になる方は下記のページにある調査結果をあたってほしい。

www.nier.go.jp

 

PISA調査に参加するのは小学6年生と中学2年生であるが、現行の小・中学校で不十分な成果しか挙げられていない。PISAの求める読解力が、日本の従来型の読解力と異なるとする意見もあるが、かといってこの結果を無視できるわけではあるまい。小中学校での成果が不十分である以上、高校でそれを補充するのは極めて自然な流れであろう。「中・高でやることだろうか」で流せるものではあるまい。

 

 

2.新課程科目「論理国語」の中身は「実用文」だけか

 前項で述べたことが許容されたとしても、契約書・説明書の問題ばかりを週4時間で1年間続けるとなれば、榎本氏の言うような「つまらない」授業となる可能性は高い。入試対策用の演習を、進路意識の弱い高校2年に課すようなものだからである(しかも週4時間で1年間)。

 ところが、新課程の学習指導要領を一読する限り、契約書・説明書ばかりを扱うわけではなさそうである。学習指導要領における「論理国語」の「読むこと」の対象となる教材については「論理的・実用的文章」「社会的な話題について書かれた論説文」「学術的な短い論文」(p170~171)と列挙されている。素朴に考えて、現行課程の「現代文」にあるような評論・随筆はこの枠に含まれているというべきである。

https://www.mext.go.jp/content/1407073_02_1_2.pdf

 そもそも、契約書・説明書のような問題はあくまで調査・テスト用の問題であり、そうした問題ばかりが教科書に掲載されるとは考え難い。仮に契約書・説明書ばかり列挙された教科書を作成したとなれば、それはテスト対策用の問題集と変わらず、教科書としての意味をなさない(教科書検定の意味もない)。指導要領の理念を教科書でどこまで再現できるかは現時点では未知数であるが、榎本氏は新課程の学習指導要領について一切言及しておらず、その意味で、榎本氏の言う「論理国語」=「実用文(のみ)」という見解はかなりのミスリードだといわねばなるまい。

 

 

3.新課程で「論理国語」と「文学国語」の両立は本当に不可能か

 榎本氏は記事の中で「論理国語」と「文学国語」は片方しか学べないという前提に立っている。学習指導要領では「論理国語」「文学国語」がともに4単位と規定されており、他の科目との兼ね合いを考えるなら両立は困難のように見える。しかし、実は「論理国語」と「文学国語」を同時に履修することは十分可能である。私個人でシミュレーションしてもよかったが、教科書会社が独自にモデルプランを作成し、インターネット上でも閲覧可能にしているのでそれを利用したい。

https://www.chart.co.jp/subject/sugaku/suken_tsushin/94/94-1.pdf

 このプランを見る限り、「論理国語」「文学国語」は2年時に2単位、3年時に2単位の履修でそん色なく履修ができる。理科系やその他のコースでは困難になると思われる(理系のモデルプランでは「文学国語」または「古典探究」の選択となっている)が、1週間の時間数を増やす、一部科目で減単位を行う(学習指導要領上は可能である)などの対応で理系やその他のコースでも対処できるのではないか。

 これについては、榎本氏が引用する日本文藝家協会の声明に基づいていると思われるため、榎本氏の問題というよりは協会側の落ち度である。しかしながら、科目の両立が可能かどうかは今回の議論の大前提であるので、きちんとシミュレーションした上で言及すべきと言っておきたい。

http://www.bungeika.or.jp/pdf/20190124_1.pdf

 

4.新課程で文学の比重が減り、何が問題か?

  最後に、高校国語で文学の比重が減ること自体の問題ついての私見を述べておく。榎本氏は契約書・説明書の読解指導への疑問と同時に、実用志向の新課程に伴いこれまでの高校の国語授業で行われた文学読解の時間が減少することを問題視している。3で述べた通り、カリキュラムの組方次第で「文学国語」(すなわち、文学に充当できる授業時間)は確保できるのだが、仮にそれができなかったとして、榎本氏が何を問題としているかが見えてこないのである。榎本氏は記事の後半でこのように述べる。

 

 進学校の生徒たちは本をよく読み、読解力を身につけているため、実用文の勉強など改めてやる必要はないし、新しい学習指導要領に切り替わっても、私立進学校の生徒たちは、国語の授業や自分自身の趣味あるいは学習として小説も評論も積極的に読むだろう。

 一方で、もともと本を読まず、読解力の乏しい生徒たちは、国語の授業で実用文の読み方を学ぶようになる。先述のように現行の「現代文」から「論理国語」へという移行により、これまでは教科書で著名な小説や評論といった実用文でない文章に触れることができたのだが、今後は文学作品に触れることがほとんどない生徒たちが大量に出てくることが予想される。

 これにより、文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化が進むに違いない。知的階層形成を公教育においても進めていこうとする政策に、平等な扱いを好む日本国民は果たして納得できるのだろうか。このように大きな問題をはらむ教育改革に国民はしっかりと目を向け、その妥当性について本気で考えてみるべきではないだろうか。これは、今後の子どもや若者の人生を大きく左右するような出来事なのである。

 

 この主張について、私の感じた疑問は以下4点である。

  • 進学校の生徒たちが本をよく読み、読解力を身につけていると仮定するならば、高校でわざわざ文学に時間を割く意味は何か。極論を言えば、仮に高校の国語で文学授業を全く触らずとも、この生徒たちは主体的に文学作品を読み進めるのではないか。
  • 本を読まない、読解力に乏しい生徒への出会いの場として文学を扱うことは理解できるが、その実態や有効性をどこまで把握しているのか。
  • 文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化を問題視しているが、実用文しか読まない者を「非教養人」という否定的な断じ方をする意図は何か。本文中で評論についてまったく触れていないにもかかわらず、「教養人」の読み物に評論を加えた意図は何か。また、現行課程でも新課程でも実用文さえ読めない者がいるはずだが、それについて最後に言及しなかったのはなぜか。
  • 「平等な扱いを好む日本国民は納得できるのか」とあるが、筆者が問題視していることは「文学鑑賞に充てる時間の減少」のはずであり、不平等かどうかとは無関係ではないか。平等性を問題視しているのであれば、国語に限らず高校での全教科・科目の選択について何も言及がないのはなぜか。

 

 冒頭でも述べたように、私は高校国語で文学を扱うこと自体には反対ではない。無機質に論じられがちな評論文よりも、読者の感情に訴える文学的文章のほうが好まれることは筆者も同意するし、それをきっかけに読解力が身につくということもおおむね同意である。しかし、他分野でPISAの調査のようなエビデンスが求められる時代に、エビデンスを無視した議論はいただけない。統計的な調査とはいわずとも、学者や教員の声を拾うなど、根拠となる情報を収集する努力は求められてしかるべきである。

 そして、そうした根拠をほとんど示していないにもかかわらず、「実用より教養(文学)」とする主張がこの部分だけでも数度見え隠れする。読解力のある生徒にとって実用文は不要としながら文学は平等に勧め、文学の時間数減を”不平等”としながら、実用文や他教科の不平等さには言及しない点は、文学以外の分野をないがしろにしてるといわれても仕方あるまい。

 自然科学・社会科学系の著書をそれなりに読み続けてきた(そして、長らく休眠しているがWikipediaニコニコ動画の解説をしてきた)身としては、”教養は文学だけの専売特許ではない”と強く主張しておく。そしてその意味で、「実用文しか読めない者」を「非教養人」とする榎本氏の見解には強い違和感を覚えるのである。

 

 最後に、榎本氏の著書『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)についてのフォローをしておきたい。本書は私もKindleにて一読したが、度重なる学校改革で教育現場が疲弊している事実を多角的に論じたものであり、本稿のような国語教育に関する事項もその文脈で述べられたものである(ただし既述の通り、国語教育に関しては賛同しかねる主張が多い)。教育現場が疲弊していることを嘆く筆者の問題意識には私も同意するし、本書で述べられている事柄(国語教育の議論を含む)は、一般にはまだまだ知られていないことばかりであろう。そうした意味で、新書という読みやすい形で出版した筆者には敬意を表したい。

 

www.amazon.co.jp

 

【おまけ】

私は榎本氏の記事を上記のように批判させていただいた(至らぬ点もあるだろうことは覚悟している)。本文中で述べたように、ドライではあるものの文学を読むことに一定の理解を示している。

ただ、私が文学に対しドライなのは、文学に影響を受けたの人間が、教養ある人間ならば言わない/しないであろう言動を幾度となく見ているからである。まったくご存じない方もいると思うので、おまけとして例を挙げておく(閲覧注意)。もちろん、文学に影響を受け、まっとうな人生を歩んだ者が大多数であることも理解しているが、それは文学と無縁だった者(私を含む)も同様である。

https://ameblo.jp/crio85461729/entry-10065442476.html

https://honz.jp/articles/-/40510

https://www.buzzfeed.com/jp/tatsunoritokushige/animeka

https://medium.com/@looky.kao/%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8-c950320d557e

https://www.j-cast.com/2019/05/17357664.html?p=all

https://hanada-plus.jp/articles/246

https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/shiori-ito-11

https://www.asahi.com/articles/ASN7056TLN7XUTFL00T.html

 

 

【追記】

まさかの続編。

https://ozean-schloss.hatenadiary.org/entry/2020/08/19/124753

学力トップクラスで喜ばない日本

今更ながら、学力低下について私見を書いてみます。
一応、Wikipediaで教科教育(数学教育、理科教育など)を加筆している立場から。


最近は下火な学力低下論争。
ネットを中心にいろいろ眺める限りでは、「一応今は大丈夫だけど、今のままでは学力が低下しそう」とか、「学力そのものは高いけれど、意欲とか応用力に課題あり」といった論調が多いようにおもいます。
例えばこれ。
http://allabout.co.jp/children/hsexam/closeup/CU20081215B/index2.htm

一方、リンク切れが多いので出典を上げにくいのですが…中には「今にも生徒の学力は低下しそう」とか、「もうすでに学力が低下している」といったやや極論じみた論調も見られたりします。

いずれにせよ、現状に対しやや悲観的な主張が多いのが現状と言えるかと。



ここで、一つ素朴な見解を提示してみたいと思います。


学力の国際比較でトップクラスになることって、すごいことじゃないの??


最近、とある数学の先生から聞いた話です。

授業で中3相手にPISAの話を持ち出した時、その先生の予想は「今のままじゃまずい。他の国に負けないくらいもっと勉強しよう!」だったそうですが、実際の多くの生徒の反応は「(自分たちと同じ)日本の中学生の学力はこんなに高かったんだ。すご〜い!」だったそうです。

実際、PISAの調査では
数学リテラシー 1位→6位(→10位)
科学リテラシー 2位→1位(→5位)
読解力     8位→14位(→15位)
※ 調査年は順に、2000年→2003年(→2006年)

最近、PISA2006の結果が公開されたために、学力低下の危機意識の正しさを裏付ける結果となっていますが、学力低下が言われた2003年時点では分野の差はあれトップクラスの学力を持っていたワケです。当時なされた「一応今は大丈夫だけど、今のままでは学力が低下しそう」とか、「学力そのものは高いけれど、意欲とか応用力に課題あり」といった主張はそれ自体間違っていないものの、その側面を全面に押し出しすぎて「前よりは落ちてるし、このままだともっと落ちそうだけど、学力は高いぞ」という認識ができずにいた気がしてなりません。

思えば、最初の2000年の調査で数学1位、科学リテラシー2位だったにもかかわらず、今まで誰もそのことについてポジティブな評価をしようとしなかった。「学力低下問題」として盛り上がった頃でさえ、「学力が低下しそう(orしている)」とは述べても、「数年前まで、日本の生徒の学力は高かった」とは誰も述べようとしなかった。今までの議論は、そこまで言い切ってしまえるほど今までの議論は偏っていたような気がしてなりません。

現状に甘んじることなく上を目指すこと、課題を克服すること、それ自体は間違ってはいなけれども、現状の優れているところもきちんと評価しないと、いつまでたっても教育が良くはならないでしょう。本当にいいことをやってもダメ出ししかしないのだから、「ああでもない、こうでもない」と迷走を続けるだけではないのか。

少々まとまりに欠ける部分はありますけども、そんなことを思った次第です。

※参考:Wikipedia学力低下
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%A6%E5%8A%9B%E4%BD%8E%E4%B8%8B

Twitterもはじめました

仕事が忙しいと、なかなかブログの日記を
更新する気になれないので、
短く更新できるTwitterで更新するシステムを作ってみました。


Wikipediaの更新のことを中心に、いろいろつぶやくつもりです。
今のこのブログほど音信不通にはしないつもりですが、
それでも更新頻度はまちまちになる可能性があります。


もし興味がありましたら、ご覧になった上で
フォローしていただけるとうれしいです:
http://twitter.com/ozeanschloss

ローレンス・コールバーグ

かなりこのブログの更新をサボっていました。
気持ちがさめないうちに更新。

ローレンス・コールバーグ(Wikipedia記事)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B0

Wikipedia執筆を始めた頃に新規作成したページの1つ。

道徳性発達理論や、モラルジレンマで有名な人物、コールバーグ。
しかし、当時(2008年10月)は彼のページがなかったので、大学時代に読んだ文献をもとに執筆を開始。道徳性発達理論を中心としたページが完成しました。
ところが、執筆を進めるうちに、ある意味もっとも肝心な彼自身のことがわからないという課題にぶち当たることに。直接会ったことがないのはもちろん、本などでも専攻や出身地・出身大学くらいしか分かりませんでした。
これについては、チャールズ・パーシー・スノー同様、英語版を参照して執筆(もちろん、参考にした旨は記録に残しています)。同時に、鬱に悩まされて自殺するという壮絶な晩年も知ることとなりました。


ところで、これは独自研究の恐れがあるので今のところ書いていませんが、彼の日本での知名度は意外と高くないように思われます。
ホームページで検索しても、モラルジレンマ実践の話が最も多く、ついで道徳性発達理論の提唱者として紹介がある程度。モラルジレンマ実践についてはいくつか課題が指摘されているようですが、それ以前に心理学理論の分野以外でほとんど目を向けられていない節があるのではないかと勘ぐりたくなります。

そのように思う根拠はいくつかあります。

まず、私見では彼の道徳性発達理論は、(一定の認知度・影響力がある、という前提ですが)人間の道徳的な価値観の優劣を測る客観性の高いものさしとして機能しうるとにらんでいます。彼の理論をもとに知能指数検査のような質問紙が作成されるようになれば、(いろいろ問題点は出ると思われますが)学校現場で生徒の道徳的な価値観の程度を把握する強力な物差しとなるはずです。今のところ、生徒の道徳的な価値観は「測定不可能なもの」として捕らえられているからです。しかし現状では、そうしたものさしを活用しようとする動きは今のところまったくといっていいほど見られません。
そして、コールバーグ関係でもっとも認知度が高いモラルジレンマにしても、道徳教育実践としてのモラルジレンマは「ある状況について判断に窮する2つの選択肢から何を選ぶか」というところに終始する感が強く、学習者の道徳的な価値観がどう変化したかを分析しようという視点が弱いのではないかと考えられます。要するに「やって満足」というところが強く、生徒の様子は実践者の直接的な観察にほぼゆだねられてしまっている状態だと考えられるのです。

彼の理論が応用されるとどうなるのか(世の中がよくなるのか、悪くなるのか)は今のところ未知数です。が、どちらにせよ彼の理論そのものの認知度はもっと高くなってしかるべきだと考えます。世の中がよくなるとすればもっと活用されてしかるべきだし、悪くなるとしても彼の理論を越えるものを作れば結果的には世の中に還元されます。しかし今は認知度が妙に低くて毒にも薬にもなっていない状態です。

コールバーグの記事が、その認知度向上に少しでも貢献されればと思います。