「論理国語」は「本が読めない人」を育てるのか? #論理国語 #国語教育

たまたま読んだこの記事に強い違和感を持った。私の観測範囲では、この記事に批判的な見解がほとんどみられないため、僭越ながらブログとしてまとめてみた。(10年ぶりのブログである)

 

diamond.jp

 

 先に断っておくと、私はこの記事の見解には総じて批判的だが、高校の国語で文学を読ませる意義そのものは理解している。ただし、私は文学についてはかなりドライなところがあるため、文学を愛好する方にはかなり違和感のある文章になるのではないかと危惧する。このブログを読まれる方がどれだけいるかわからないが、この点についてはご容赦いただきたい。 

 

この記事の要点を私なりにまとめるとこうなる。

  • 学習指導要領の新課程で「現代文」に代わり「論理国語」(実用文中心)と「文学国語」(文学中心)の選択になる。多くの高校で「論理国語」が選択されることが予想され、高校の国語で文学に触れる機会が減る。
  • 記事の発信者、榎本博明氏によれば、こうなった背景には、まともに文章の読み書きができない中高生・大学生が増えたことにある。氏はこの件で、「わざわざ高校でやることだろうか」と付け加える。
  • 新課程の移行により、今後は文学・評論に親しむ教養人と、実用文しか読まない非教養人に分断される。

 

 

この記事は榎本博明氏の著書『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)が下敷きになっている。この本は国語に限らず、近年の教育動向に教育現場が疲弊していることを問題提起しており、その意味で、この記事の意図は「新課程国語教育の実学志向への警笛」と読み取るのが正しいだろう。

なお、本文中に述べられている「実学志向」の中身は

  • 駐車場の契約書や会議の議事録の読み方、商品の取扱説明書の読み方

であり、以上の点を踏まえ、以下の4点を指摘したい。

 

 

1.高校で「実用文」の読解は”不要”か

 そもそも、榎本氏が問題視するような「実用文」が登場した背景は何か。直接には2020年度(今年度)から実施予定の新テストにあるだろうが、その背景にはPISAの学力調査があるとみてよい。新テスト問題で話題になった契約書・説明書の問題はPISAの学力調査においても登場するからだ。

 PISAの学力調査においては「数学的リテラシー」「科学リテラシー」とともに「読解力」が調査されているが、「読解力」については他の2つ以上に芳しくない成果が続いている(それでもOECD加盟国の平均以上ではあるが、それで納得する教育関係者はいないだろう)。ここでそのデータを詳細には延べないので、気になる方は下記のページにある調査結果をあたってほしい。

www.nier.go.jp

 

PISA調査に参加するのは小学6年生と中学2年生であるが、現行の小・中学校で不十分な成果しか挙げられていない。PISAの求める読解力が、日本の従来型の読解力と異なるとする意見もあるが、かといってこの結果を無視できるわけではあるまい。小中学校での成果が不十分である以上、高校でそれを補充するのは極めて自然な流れであろう。「中・高でやることだろうか」で流せるものではあるまい。

 

 

2.新課程科目「論理国語」の中身は「実用文」だけか

 前項で述べたことが許容されたとしても、契約書・説明書の問題ばかりを週4時間で1年間続けるとなれば、榎本氏の言うような「つまらない」授業となる可能性は高い。入試対策用の演習を、進路意識の弱い高校2年に課すようなものだからである(しかも週4時間で1年間)。

 ところが、新課程の学習指導要領を一読する限り、契約書・説明書ばかりを扱うわけではなさそうである。学習指導要領における「論理国語」の「読むこと」の対象となる教材については「論理的・実用的文章」「社会的な話題について書かれた論説文」「学術的な短い論文」(p170~171)と列挙されている。素朴に考えて、現行課程の「現代文」にあるような評論・随筆はこの枠に含まれているというべきである。

https://www.mext.go.jp/content/1407073_02_1_2.pdf

 そもそも、契約書・説明書のような問題はあくまで調査・テスト用の問題であり、そうした問題ばかりが教科書に掲載されるとは考え難い。仮に契約書・説明書ばかり列挙された教科書を作成したとなれば、それはテスト対策用の問題集と変わらず、教科書としての意味をなさない(教科書検定の意味もない)。指導要領の理念を教科書でどこまで再現できるかは現時点では未知数であるが、榎本氏は新課程の学習指導要領について一切言及しておらず、その意味で、榎本氏の言う「論理国語」=「実用文(のみ)」という見解はかなりのミスリードだといわねばなるまい。

 

 

3.新課程で「論理国語」と「文学国語」の両立は本当に不可能か

 榎本氏は記事の中で「論理国語」と「文学国語」は片方しか学べないという前提に立っている。学習指導要領では「論理国語」「文学国語」がともに4単位と規定されており、他の科目との兼ね合いを考えるなら両立は困難のように見える。しかし、実は「論理国語」と「文学国語」を同時に履修することは十分可能である。私個人でシミュレーションしてもよかったが、教科書会社が独自にモデルプランを作成し、インターネット上でも閲覧可能にしているのでそれを利用したい。

https://www.chart.co.jp/subject/sugaku/suken_tsushin/94/94-1.pdf

 このプランを見る限り、「論理国語」「文学国語」は2年時に2単位、3年時に2単位の履修でそん色なく履修ができる。理科系やその他のコースでは困難になると思われる(理系のモデルプランでは「文学国語」または「古典探究」の選択となっている)が、1週間の時間数を増やす、一部科目で減単位を行う(学習指導要領上は可能である)などの対応で理系やその他のコースでも対処できるのではないか。

 これについては、榎本氏が引用する日本文藝家協会の声明に基づいていると思われるため、榎本氏の問題というよりは協会側の落ち度である。しかしながら、科目の両立が可能かどうかは今回の議論の大前提であるので、きちんとシミュレーションした上で言及すべきと言っておきたい。

http://www.bungeika.or.jp/pdf/20190124_1.pdf

 

4.新課程で文学の比重が減り、何が問題か?

  最後に、高校国語で文学の比重が減ること自体の問題ついての私見を述べておく。榎本氏は契約書・説明書の読解指導への疑問と同時に、実用志向の新課程に伴いこれまでの高校の国語授業で行われた文学読解の時間が減少することを問題視している。3で述べた通り、カリキュラムの組方次第で「文学国語」(すなわち、文学に充当できる授業時間)は確保できるのだが、仮にそれができなかったとして、榎本氏が何を問題としているかが見えてこないのである。榎本氏は記事の後半でこのように述べる。

 

 進学校の生徒たちは本をよく読み、読解力を身につけているため、実用文の勉強など改めてやる必要はないし、新しい学習指導要領に切り替わっても、私立進学校の生徒たちは、国語の授業や自分自身の趣味あるいは学習として小説も評論も積極的に読むだろう。

 一方で、もともと本を読まず、読解力の乏しい生徒たちは、国語の授業で実用文の読み方を学ぶようになる。先述のように現行の「現代文」から「論理国語」へという移行により、これまでは教科書で著名な小説や評論といった実用文でない文章に触れることができたのだが、今後は文学作品に触れることがほとんどない生徒たちが大量に出てくることが予想される。

 これにより、文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化が進むに違いない。知的階層形成を公教育においても進めていこうとする政策に、平等な扱いを好む日本国民は果たして納得できるのだろうか。このように大きな問題をはらむ教育改革に国民はしっかりと目を向け、その妥当性について本気で考えてみるべきではないだろうか。これは、今後の子どもや若者の人生を大きく左右するような出来事なのである。

 

 この主張について、私の感じた疑問は以下4点である。

  • 進学校の生徒たちが本をよく読み、読解力を身につけていると仮定するならば、高校でわざわざ文学に時間を割く意味は何か。極論を言えば、仮に高校の国語で文学授業を全く触らずとも、この生徒たちは主体的に文学作品を読み進めるのではないか。
  • 本を読まない、読解力に乏しい生徒への出会いの場として文学を扱うことは理解できるが、その実態や有効性をどこまで把握しているのか。
  • 文学や評論に親しむ教養人と実用文しか読まない非教養人の二極化を問題視しているが、実用文しか読まない者を「非教養人」という否定的な断じ方をする意図は何か。本文中で評論についてまったく触れていないにもかかわらず、「教養人」の読み物に評論を加えた意図は何か。また、現行課程でも新課程でも実用文さえ読めない者がいるはずだが、それについて最後に言及しなかったのはなぜか。
  • 「平等な扱いを好む日本国民は納得できるのか」とあるが、筆者が問題視していることは「文学鑑賞に充てる時間の減少」のはずであり、不平等かどうかとは無関係ではないか。平等性を問題視しているのであれば、国語に限らず高校での全教科・科目の選択について何も言及がないのはなぜか。

 

 冒頭でも述べたように、私は高校国語で文学を扱うこと自体には反対ではない。無機質に論じられがちな評論文よりも、読者の感情に訴える文学的文章のほうが好まれることは筆者も同意するし、それをきっかけに読解力が身につくということもおおむね同意である。しかし、他分野でPISAの調査のようなエビデンスが求められる時代に、エビデンスを無視した議論はいただけない。統計的な調査とはいわずとも、学者や教員の声を拾うなど、根拠となる情報を収集する努力は求められてしかるべきである。

 そして、そうした根拠をほとんど示していないにもかかわらず、「実用より教養(文学)」とする主張がこの部分だけでも数度見え隠れする。読解力のある生徒にとって実用文は不要としながら文学は平等に勧め、文学の時間数減を”不平等”としながら、実用文や他教科の不平等さには言及しない点は、文学以外の分野をないがしろにしてるといわれても仕方あるまい。

 自然科学・社会科学系の著書をそれなりに読み続けてきた(そして、長らく休眠しているがWikipediaニコニコ動画の解説をしてきた)身としては、”教養は文学だけの専売特許ではない”と強く主張しておく。そしてその意味で、「実用文しか読めない者」を「非教養人」とする榎本氏の見解には強い違和感を覚えるのである。

 

 最後に、榎本氏の著書『教育現場は困ってる――薄っぺらな大人をつくる実学志向』(平凡社新書)についてのフォローをしておきたい。本書は私もKindleにて一読したが、度重なる学校改革で教育現場が疲弊している事実を多角的に論じたものであり、本稿のような国語教育に関する事項もその文脈で述べられたものである(ただし既述の通り、国語教育に関しては賛同しかねる主張が多い)。教育現場が疲弊していることを嘆く筆者の問題意識には私も同意するし、本書で述べられている事柄(国語教育の議論を含む)は、一般にはまだまだ知られていないことばかりであろう。そうした意味で、新書という読みやすい形で出版した筆者には敬意を表したい。

 

www.amazon.co.jp

 

【おまけ】

私は榎本氏の記事を上記のように批判させていただいた(至らぬ点もあるだろうことは覚悟している)。本文中で述べたように、ドライではあるものの文学を読むことに一定の理解を示している。

ただ、私が文学に対しドライなのは、文学に影響を受けたの人間が、教養ある人間ならば言わない/しないであろう言動を幾度となく見ているからである。まったくご存じない方もいると思うので、おまけとして例を挙げておく(閲覧注意)。もちろん、文学に影響を受け、まっとうな人生を歩んだ者が大多数であることも理解しているが、それは文学と無縁だった者(私を含む)も同様である。

https://ameblo.jp/crio85461729/entry-10065442476.html

https://honz.jp/articles/-/40510

https://www.buzzfeed.com/jp/tatsunoritokushige/animeka

https://medium.com/@looky.kao/%E5%B7%AE%E5%88%A5%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%AE%E8%A6%9A%E6%9B%B8-c950320d557e

https://www.j-cast.com/2019/05/17357664.html?p=all

https://hanada-plus.jp/articles/246

https://www.buzzfeed.com/jp/kensukeseya/shiori-ito-11

https://www.asahi.com/articles/ASN7056TLN7XUTFL00T.html

 

 

【追記】

まさかの続編。

https://ozean-schloss.hatenadiary.org/entry/2020/08/19/124753