非教養人による「文学と論理の二分」についての考察 #論理国語 #国語教育

前回のブログ『論理国語は「本が読めない人」を育てるのか』は新課程の国語教育(主に論理国語の存在)があたかも「本を読めない人」を育てるかのような主張に反論することが目的だった。そしてそのついでに、(高校国語での文学授業自体には反対しないものの)文学は教養の専売特許ではないとも主張した。はてなブックマークTwitterではそこそこの反響があったようだが、肝心かなめの国語教育関係者にどこまで響いているのかは未知数である。

 

実のところ、前回のブログは新課程の国語教育そのものに賛否や意見することを意図していなかった。新課程の国語(特に「論理国語」「実用文」)に粗雑な批判を加え、その文脈で「実用文しか読まない者」を「非教養人」という否定的なラベリングをして結論付ける。そんな記事が投稿されなければ、私はこのようなブログを書かずに済んだのである(筆者がどれだけ文学の優位さを説き、国語教育に批判を加えようとも)。

 

ところで、前回のブログ公開後、私の記事や関連するトピック(批判元の記事を含む)への反響の中に、

・新課程への変更で論理的な読み書き能力は身につくのか

・現場の国語教師にどこまで可能なのか

という声が数度見られたことにある。批判の対象とさせていただいたような記事が出てくる背景に、新課程による国語教育への不安があることくらいは素人の私でも容易に想像できる。それゆえ、新課程の国語教育への不安を軽減することが、前回のブログを公開した者の責任だろうと考え、僭越ながらも前回の続編(?)を書くこととした。

 

とはいえ、国語教育の問題は非常に多岐にわたり、その全貌をつかむことは困難を極める。よって本稿では、観測されたいくつかの反響のうち、

・論理(実用文)と文学は分断できない。文学にも論理はある。

・現在の国語教師に論理の指導はできるのか。他教科に任せたほうが良いのでは?

2種類の見解に焦点を当てて論を試みる。かなりの長文とはなったが、その割に「国語で論理の指導をするための有効な方法は何か?」までは踏み込んでいないので、その点だけは先にご了承いただきたい(要望があれば、後日、参考になる情報源くらいは提示しようと考えている)。

 

なお、ブログ発信者としての私の真意は、”私は文学にさほど興味はないが、文学は重要だという者の権利は全力で守る。ただし、文学以外の書物を好む者の権利も同様に守れ”である。今回、国語教育について言及するのも、究極的にはこの点を目指すものであることを念頭に入れて読んでいただければ幸いである。

 

 

 

1.「論理国語」「文学国語」のような科目の分断は必要なのか

 

”必要”というのが私の立場である。

正確には”厳密な線引きはできないが、教育上の便宜で分けるべき”である。

以下に詳細を述べよう。

 

1-1 科目分断を問題視する根拠は何か(日経新聞記事より)

この件について、まずは2科目への分断を批判する側の見解を確認しておこう。実際は論者によって微妙に言い回しが異なるのだが、今回は小倉孝誠氏が日本経済新聞に寄稿した記事を拝借する(リンクは日経新聞の有料記事だが、無料会員登録で閲覧可能)。

 

現⾏の選択科⽬「現代⽂」がこの2科⽬に分けられる形になるのだが、そこには論理と⽂学が全く異なるもの、時には相反するものだという暗黙の認識が透けてみえる。思考⼒や判断⼒は論理の領域であり、想像⼒や情緒にうったえるのが⽂学だ、という⼆分法である。しかし科⽬や教材のレベルで、論理と⽂学を明確に分けられるとは思えない。⽂学作品を分析し、解釈することもまた論理的な作業なのだから。⽂学界や関連学会からは、これが⽂学の軽視につながるという危惧が表明されたが、本質はそこではない。「論理国語」では「論理的な⽂章」「実⽤的な⽂章」を扱い、「⽂学国語」では「⽂学的な⽂章」を扱うことになる。このような科⽬と教材の細分化は思考⼒、判断⼒、表現⼒などを総合的に育むという国語科の⽬標にそぐわないことが問題なのだ。すぐれた⽂章ほど論理と⽂学、また様々な知の領域と横断的に関わる。複雑化する世界を理解し多様な⼈々と交流するためには、論理と⽂学という危うい分断を超えた国語教育が求められる。

www.nikkei.com

 

「科⽬と教材の細分化は思考⼒、判断⼒、表現⼒などを総合的に育むという国語科の⽬標にそぐわない」という小倉氏の認識に私も完全に同意見である。そして、「文学作品を分析し、解釈すること」を”論理的”とすること、すぐれた文章ほど論理と文学、またさまざまな知の領域と横断的にかかわる」のも基本的には同意である。

 

ただし私は、彼のいう「文学作品を分析し、解釈する」ための”論理”の身をかなり懐疑的に見ている。そしてそれゆえに、彼の「文学と論理を二分することの弊害」(意訳込みだが、以下はこれで統一する)を甘受してでも分断すべき側に立っている。少々長くなるが、節をまたいで詳しく述べよう。

 

 

1-2 ”文学の論理”と”一般的な論理”は同じか

「共通部分はあるが、同じではない」これが私の立場である。

 

そもそも近年、国語教育で”論理”が強調されるようになった理由は、児童・生徒・学生の読み書き能力の課題が浮き彫りになり、それが長らく改善されてこなかったからだと認知している。”論理”と称する以上、それは筋道さえ間違えなければ誰でも同じ見解になるものでなければならないし、そうでなければ相手に伝わらない(歴史的にも、それが論理学の始まりだったはずだ)。

 

したがって、国語教育で教えられるべき”論理”も、基本的にはそれに準拠したものでなければならない。以下に、まずは”一般的な論理”の例を挙げる。

 

1

「すべての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」

 ⇒ 「ソクラテスは死ぬ」

2

「鳥類はすべて空を飛ぶ」「ペンギンは鳥類である」

 ⇒ 「ペンギンは空を飛ぶ」

3

「加藤さんはご飯を食べなかった」「ご飯は食事である」

 ⇒ 「加藤さんは食事を食べなかった」

 

1はともかく、例2が誤りであることは明らかである。とはいえ、論理の筋道(推論)に問題があるのではない。前提となる「鳥類はすべて空を飛ぶ」が誤っており、だから結論となる「ペンギンが空を飛ぶ」という誤った結論になるのである(ただし、生物学の知識が前提となる)。

 

また、例3も(少々わかりにくいが)論理的に誤りである。前提となる「加藤さんはご飯を食べなかった」「ご飯は食事である」が正しいとしても、「加藤さんはパンを食べました」などの結論になる可能性が残されており、その意味で結論「加藤さんは食事を食べなかった」は誤りである(本当に食べていない可能性もゼロではないが)。

※参照:ご飯論法 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%94%E9%A3%AF%E8%AB%96%E6%B3%95

 

文学における論理の話に戻ろう。”文学における論理”が、今述べた”一般的な論理”と完全一致するならば、両者を二分すべきとする私の主張は撤回するしかなくなる(繰り返すが、私も「文学と論理を二分することの弊害」自体には同意している)。

 

ただし、本節の冒頭に述べたように、私は”文学の論理”は”一般的な論理”と異なるものとみなす。

 

実際、文学的文章の中では、いわゆる一般常識が通用しない場面、そして独特な表現が多々出てくる。動物が人間の言葉を発したり、人間が道具なしで空を飛んだり、動物になったりという非現実的な前提・因果関係が成立するし、唐突に「激怒した」と叫んだり、主要人物の結末がぼかされたり、といった因果関係の追いづらい表現も多々存在する(ちなみに前者の元ネタは『走れメロス』、後者は『羅生門』のつもりである)。前者のような非現実的な前提は独特の世界観を生み出すためのもの(それが文学の魅力の1つ)だし、後者も読み手の感情に訴えるレトリックなのだから、文学としては当然である。

 

個人的には、これらを”文学の論理”に含めてよいのか少々疑問ではある(論理かどうかはともかく、学習指導要領解説の「文学国語」には指導項目として明記されている)。しかし私は、文学的文章におけるこうした表現・技法は、少なくとも要請されている”一般的な論理”とは異質のものという立場に立つ。そしてその立場から、「文学にも論理がある」という理由だけで「文学の授業でも(一般的なものと同等の)論理の指導は可能である」と結論付けるのは完全なミスリードであり、その意味で、”文学の論理”を他の論理と同列に扱うような主張にも懐疑的にならざるを得ない(小倉氏もさすがにそこまで言及はしていないが)。

 

以上より、一般的な論理と文学特有の論理を線引きするという”教育上の便宜”として、一般的な論理を扱う科目(「論理国語」)と文学的な論理を扱う科目(「文学国語」)は分けられるべきである。反論の余地はあるだろうが、今後はせめて、文学における”論理”の中身を吟味してから論を展開していただければと思う。

 

 

1-3 補足:分断をされた科目を統合するための”越境”

本項は補足である。ここまでの文章を読んでも「いや、おかしい」と思った方は目を通していただきたい。

 

私は文学的文章の中に一般の論理で説明できる場合があること、いわゆる評論文の中に論理的におかしな文章やレトリカルな表現が含まれる場合があることを十分に認知している。実際、一般的な論理としたものの例には「木炭とダイヤモンドは同じ物質」「光の速度は有限」「コーヒーカップとドーナツは同じ図形」のように、初学者の直感に反するものもそこそこ存在する(もちろん論理的・学問的には正しい)。

 

しかしそれでも、生徒(場合によっては教師)が両者の論理を混在して混乱しないよう、科目という形で便宜的に分けるべきだと私は言いたい。教材となる文学的文章や評論文自体の意図(執筆者の意図)はともかく、授業者としては読み取るべき主張、習得すべき技能があるはずであり、特に論理に関しては集中的に学ばせることを学習指導要領は要請しているはずである。その観点でいえば、「文学と論理の二分」を嫌がる者の主張は、究極の読書を目指すがあまりに欲張っているようにも見えるのである(そして多くの場合、論理的な側面が中途半端となる)。

 

そもそも、学習指導要領解説の「文学国語」の記述を読む限り、「文学国語」という科目は”論理”についての指導を特に禁止してはいない。つまり、文学作品の背景や文化・思想などと併せて”論理”を教えればよい。一般的な論理を「論理国語」の枠内で扱い、文学特有の論理は「文学国語」で扱う。前項でも述べたように、学校側が注意を払っていれば両科目の同時履修さえ可能だったことも思い出してほしい(目的に併せた指導の不自由さや担当教師の個人差はあるかもしれないが)。

※ 国語科の新学習指導要領:https://www.mext.go.jp/content/1407073_02_1_2.pdf

 

そして、幸いなことに、現在の教育情勢ではいわゆる”教科(科目)横断”が容認されつつあると聞く。高校物理で三角比やベクトルを教えたり、現代社会の科目でフランス革命を扱う程度の”越境”は教師の裁量で許されると耳にする。「文学国語」で一般的な意味での論理を教えたい、「論理国語」で文学的な言い回しを扱いたいと思うなら(それが教育上有益だと考えるなら)、個々の教師や学校の責任で”越境”すれば済む話だと思うのだが、違うのだろうか?

 

 

 

2.論理は国語ではなく、他教科で学ばせるべきか?

 

こちらについては、「他教科であってもよいが、基本的には国語でやるべき」が私の立場である。

ただし、後述するが、「国語で有効な論理指導が定着するには長い時間を要する」とも考えている。

 

すでに1節にて、「論理国語」「文学国語」の分断に必然的な意味があることを指摘した。それでも両者の分断に疑問を感じるとすれば、その原因は分断そのものではなく、「現在の国語教師に論理の指導はできるのか」という点に尽きると思われる。「論理の指導は他教科で指導すべき」のような主張もその延長線上であろう(これ以外の疑問点があるだろうことは否定しない)。

なお、こちらも詳しい文脈を知りたい方のため(少々古いが)雑誌の記事を掲載しておく。ただし、1節の「文学と論理の二分」と異なり、この記事の文脈が本節の論の展開に影響することがないため、ここでの具体的なコメントは控えることとする。

dot.asahi.com

 

 

2-1 論理の指導を他教科に委ねると何が起きるか

 

私が国語でやるべきとした理由は明解である。端的にいえば「論理的な読解指導の責任を負うのは、最終的には国語教師だから」である。これについては具体的に記述したほうがイメージがつかめると思う(私のブログ発信者としての限界でもある)ので、当面「契約書の読解指導」に限定して話を進める。

 

例えば、契約書の読み方を公民科に委託したとする(新課程での必須科目は「公共」になるらしい)。公民科には公民科の目標(社会的な見方・考え方、国際社会への対応など)があり、その授業内容はそれに沿うものに限定される。具体的には、J.J.ルソーの社会契約説に結びつけて契約書の問題点を指摘する、日本国憲法や労働三法と比較読解する、賃金や税金の考え方を応用して収入・支出のシミュレーションをする等のアプローチが考えらえるだろう(こちらも専門外なので、授業として有益かどうかまでは判断できない)。

※ 公民科の新学習指導要領: https://www.mext.go.jp/content/1407073_04_1_2.pdf

 

あるいは、契約書の読み方を情報科に委託したとする。情報科の目標は情報活用力やネットモラルなどであるから、こちらでは契約書の種類自体も限定される。種類としてはネット通販や情報機器の購入、著作物の扱いくらいだろうか。読解に限定しなければ、Word等で契約書を作成するなどの取り組みもできよう(こちらも専門外、同上)。

情報科の新学習指導要領: https://www.mext.go.jp/content/1407073_11_1_2.pdf

 

これらの指導案がより専門家の手で綿密なものになれば、論理的文章の読解指導としてもある程度の成果を見込めると思われる(もちろん要検証である)。しかし、このような指導を行ったとしても、国語教育の立場からは大きな問題点が出てくる(契約書の読解に限定したため、安易は一般化もできないが)。本節の初めに述べたように、この問題は方法論以前に教科間の責任問題だと考えるからである。以下に3点を列挙する。

  • 「論理国語」(そして新テスト)で想定されるような、例えば内容の要約や比較(ついでに文中の語彙の確認、一部空欄にした場合の推測)を他教科に求めるのは無理筋である(目的が合致しない以上、強制はできない)。
  • 仮に他教科で有益な読解力指導ができたとして、その指導方針が国語科のそれと合致する保証はない。
  • 読解力が身につかなかった場合のフォローは結局国語科で負わねばならない。少なくとも新テストは「国語」の名目で読解問題を出題するのだから、その指導が不十分だったとしても他教科に責任を負わせるのは筋違いである。

 

他教科でどれだけ有効な読解指導をしようとも、最終的には国語科で指導の責任を負わねばならない点に注意が必要である。1-3で述べた”越境”もある程度認められているのだから、学校単位で、授業担当者同士で打ち合わせておけば、(論理的な文章読解力向上の意味でも)有意義な教育を提供できる可能性を秘めていると思う。

 

この項の最後に、多少の”苦言”を述べさせていただく(”強い違和感”どころではない)。

「論理的な文章読解指導は他教科で」という主張は、国語以外の教師への不遜でしかない、ということだ。

 

前回登場した榎本氏も主張していることだが、近年の教育現場はきわめて多忙である。OECDなどの調査からも明らかなように、日本の教育現場は労働時間・教育予算の両面で劣悪を極めている。そのような現状で科目編成が大きく変わり、限られた中での授業準備をしなければならない。すでに疲弊している教師も多いことだろう(そのうちの何人がこのブログを読んでいるかは知らないが)。

 

ただ、国語教育についての議論なので国語教師にフォーカスされがちだが、国語教師が多忙であるように、他教科の教師も多忙なのである。まして国語科は、充当可能な時間数に比較的恵まれた教科である。時間数の少ない他教科に、国語でやるべき(その教科内では必須ではない)とされた事柄に時間を割かせること自体が極めて無礼な判断であることは自覚しておいたほうがいい(1-3の”越境”の話のように合意があれば別)。そして、もし仮に「論理の指導は他教科に丸投げし、国語教師は文学の読解(古典含む)に専念すればよい」などと考えているのであれば、これまでの議論から”責任転嫁でしかない”と言わざるを得ない。

 

 

2-2 高校国語「分冊教科書」の失敗から学べ

 

前項では他教科で論理指導を行った場合をシミュレーションしたうえで、その問題点を指摘した。端的に繰り返すと、「論理的な読解指導の責任を負うのは、最終的には国語教師である」だ。

 

本来なら、今後述べるべきは「では、新課程の国語で論理の指導をするための有効な方法は何か」についての考察なのかもしれないが、それは専門家である先生方で議論することであり、専門家ではない私が立ち入るものではないと考える。しかし、ここまで論を展開してきた者の義理として、それに代わる材料を知りうる限りで提供したい。

 

本稿で紹介するのは、論理指導を高校国語で行うことの困難さである。以下に述べるが、「国語で有効な論理指導が定着するには長い時間を要する」がここでの私の主張である(困難だからやめるべき、ではない)。

 

実は、戦後間もない1950年頃の学習指導要領では、高校の国語教科書はまとまった1冊ではなく、「言語編」と「文学編」に切り離された構成だった(科目という形ではないものの、新課程の「論理国語」「文学国語」に意味合いとしては近い)。そして、高校の国語授業では、2冊の教科書を有機的に組み合わせながら授業展開することが求められた(学習指導要領が法的拘束力を持ち始めたのもこの頃である)。このような教科書構成は当時の国語教師からも不評であり、のちに学力低下が問題視されるようになったこともあって、1950年代後半には1冊の教科書に戻されることとなった。国語に限らず、1950年代の教育課程上の多くは野心的だが未知数な試みが多く、のちの日本教育史系の書物では”失敗だった”と評する本が圧倒的である。

 

注目すべきは、その失敗の詳細である。実は、この件について詳細に分析した書物は驚くほど少なく、私が見つけられたのは幸田国広著『高等学校国語科の教科構造』(渓水社2011年)だけだった。以下、この本に書かれていた経緯を箇条書きで記す。

  • 1950年代当初、国語教師たちは「言語編」「文学編」に分かれた2冊の教科書(以下、「分冊教科書」)を教材に試行錯誤で授業を行った。教育雑誌『実践国語』(1952年のもの)には分冊教科書の理念に沿ったすぐれた実践事例の記録が残されているものの、そうした実践例は稀有であり、当時の伝統的な教育観に根差した批判的な意見(言語と文学を二分すべきでない)や、分冊教科書の影響を受けなかった古典分野の実践事例が多数を占めた(p132136)。
  • 分冊教科書「言語編」の構成は出版社によりまちまちであった。当時の国語教師の多くは、言語的な解説文を拾いだして扱い、伝統的な読解指導によって授業することが多かったようである(文法や文の書き方自体の扱いは不明)。また、「文学編」でも伝統的な読解指導がそのまま継続された。両方の内容を1冊にまとめた「総合教科書」が1952年以降に出版されるようになるとそちらのシェアが大きくなり。1955年以降の分冊教科書のシェアは5割を下回り、1958年には分冊教科書自体が発行されなくなった。(p104115
  • 当時および後世の研究者の分析によれば、「言語編」「文学編」の分冊は当時の伝統的な国語教育観を見直すポテンシャルを持っていた。しかし、当時の伝統的な国語教育観との差があまりに大きく、また全体として自らの国語教育観を自己変革しようとする者も少数にとどまり、分冊教科書の消滅とともに変革を迫る実践自体がみられなくなった(p149157)。

※ 幸田氏の著書へのリンク:

https://www.amazon.co.jp/%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E5%9B%BD%E8%AA%9E%E7%A7%91%E3%81%AE%E6%95%99%E7%A7%91%E6%A7%8B%E9%80%A0%E2%80%95%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8D%8A%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B-%E5%B9%B8%E7%94%B0-%E5%9B%BD%E5%BA%83/dp/4863271581/ref=sr_1_3?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B9%B8%E7%94%B0%E5%9B%BD%E5%BA%83&qid=1597808725&s=books&sr=1-3 

これだけ見ると、新課程に伴う科目編成に現場教師が対応できる見込みは絶望的なように見える。当時の国語教師は、粗削りゆえの課題はあれどポテンシャルを秘めた教材を手にしてなお、旧来の教育観に固執し、教科書会社側を断念させるのに至ったのだから。

 

それでは、この問題について国語教師の意識改革は(困難どころではなく)不可能なのか?

先ほどの箇条書きの中に、「当時の伝統的な国語教育観との差」についての記載があったことを思い出してほしい。これは裏返せば、「教育観の差が大きくなければ、意識改革は起こりうる」、そして「ゆっくり時間をかければ意識改革は可能である」を意味しているのではないか(少々雑な推論だが)。

 

実際、幸田氏の著書を読み進める限り、分冊教科書ほどではないが教科書を通じての意識改革が進められているようである。「論理国語」とは話がそれるが、簡単に確認しておきたい。

 

  • 「現代文」「古典」の分割 ⇒ 徐々に受け入れられるが、一部では今なお批判の声がある。(前項の小倉氏が「論理」「文学」の二分に反対するのに似た反発だろうか?)
  • 評論文の定期的な刷新 ⇒ 評論文には鮮度が求められるらしく、今なお継続。ただし、自然科学系の評論は国語教師の判断で飛ばされることが多いとか。
  • 文学教材の定期的な刷新 ⇒ 一部の刷新しなかった教科書が売れ続ける。『羅生門』 『山月記』のような定番教材が登場するのはこれ以降になる。
  • 自由選択科目「現代語」「国語表現」 ⇒ 「現代語」は不評で、次の課程で引き継がれることなく消滅する(シェアの割合不明)。 「国語表現」は4割程度のシェアを得、今回の学習指導要領にも残される。

 

こうしてみると、論理に関する国語教師の意識改革には少なくとも1020年スパンの地道な努力が必要ではないかと感じる。国語教育の関係者ではない私が言うのも無責任かもしれないが、「困難だがやるしかない」(やらなければいつまでたっても変わらない)と言っておきたい。

 

個人的には、少なくとも今からの10年間で国語の先生方には尽力していただきたいし、できることなら精力的にその実践内容を公開していただきたいと思う(私のためでなく、同じく精力的な準備をされている同僚や研究者のために)。2020年となった今、インターネットで簡単に情報発信・収集できるようになったし、書籍の流通もスムーズになった。1950年代の失敗例から「一度失敗しているのに、似たようなことを繰り返すのか」と捉えるのではなく、「一度失敗しているが、今は情報収集する環境が大きく変わった」と捉えていただきたいと僭越ながらお伝えしたい。

 

 

 

3 有効と思われる文献の紹介(次回予告)

 

 今回は前回の記事の延長で、「文学と論理の二分」と「論理指導は国語以外で」の2つに反論を試みた。この2つについても私の観測範囲では表面的な主張ばかりが目立つので、今後の議論のたたき台くらいにしていただければ幸いである。

 ここまでの議論から「国語で論理の指導をするための有効な方法は何か?」に言及しないことに違和感を覚える方もいるかもしれないが、私にできることは知りうる限りの情報提供をすることだけである。後日、別記事で紹介するのでお待ちいただきたい(日頃の仕事があるため、12週間ほどかかるだろう)。

 最後に、前回そして今回のブログを執筆した本意を再掲しておく。

”私は文学にさほど興味はないが、文学は重要だという者の権利は全力で守る。ただし、文学以外の書物を好む者の権利も同様に守れ”。(元ネタは以下のリンク参照) 

ja.wikipedia.org