「高校国語から文学が消える」という”誇大広告”について #論理国語 #国語教育
前回のブログが思ったほど反響がなかったこと、そして8月下旬からの仕事で多忙だったことからブログから遠のいていた。今回、8月のブログの延長で気になった記事を見つけたため、機会を失わないうちに発信することにした。
まずはこの記事から。執筆は杉山奈津子氏。
私は文学というものに対しドライな人間なので、記事を書いた杉山氏の文学賛美にはほとんど共感できないでいる。例えばこれ。
文学作品は、人間がもつプラスの面だけでなく、心の中にある「醜さ」「狡猾さ」まで扱います。たとえば芥川龍之介の『羅生門』では、「生きていくためには悪事を犯しても仕方がない」という人間のエゴイズムに迫っています。
このようなことを、真正面から堂々と取り扱ってくれる教科は、国語のほかにないでしょう。文学作品は、生きていくうえで大切な部分に焦点をあて、人として成長を促す役割を担っているといえます。
杉山氏は文学以外に人間のエゴに迫る術がないとお考えなのだろうか?
私の読書経験でも、中島義道、ミシェル・フーコーなどの哲学者の著書は人間のエゴを生々しく記述し分析していたのを記憶しているし、日頃の政治・経済系のニュースでも人間のエゴを目にする場面は少なくない。「教科」という縛りで考えたとしても、英語や社会(地歴公民)の授業で扱う場面は多少なりと存在するはずである。
それに、そもそも高校国語に「人間のエゴ」を求める高校生がどこまでいるのか?
杉山氏の文章の後半では『羅生門』などの文学作品(定番教材)が「こうして後世に残っている名作は、残っているだけの理由があるわけです」と結んでいる。しかし、定番教材が残り続ける背景には、教科書会社が安定志向に走らざるを得なくなった側面のほうが大きいと私は見ている。
例えば、川島幸希『国語教科書の闇』(新潮新書)によれば、この手の定番教材が残り続けてきた理由は「長期に亘り編集会議の議論を経ず、ノーチェックなまま教科書会社によって「自動的に」選定され、検定を合格してきたこと」にあるという(位置No.1753)。筆者が教科書会社に試みたインタビュー内容の一例を挙げよう。
私「X社で八〇年代に選定された『こころ』は、その後九五年の教科書でも採られています。この時の編集会議では、別の小説に換える話は出なかったのでしょうか」
A「全く出ませんでした。ほとんど自動的に決まったと記憶しています。」
(中略)
A「ただでさえ保守的な教材選定作業で、こんなに高校生の数が減る時期に新しい挑戦をすることは考えられませんでした。教科書の政策は時間も手間もかかる。それに途中で部分改定はあるけれど、新教科書は約十年使われます。こうした時代には、大胆な採録はどうしてもためらわれてしまいます。」 (以上、位置No.1449-1459)
この著書を読んだうえでの反論の余地はあるだろう。杉山氏がこの手の情報収集をしたうえでどのような反論を頂けるのかは気になるところではある。
だが、今回のブログで私が訴えたいことはそこではない。
杉山氏が「高校国語から文学が消える」という題目をつけたことについてである。
ことは国語教育に関わるのだ。単なる言葉の挙げ足取りとは思わないでいただきたい。
杉山氏が危惧するように、新学習指導要領の改訂で高校国語における文学読解指導の時間が”減る”可能性は高い。高校一年時の必修科目「現代の国語」「言語と文化」(各2単位)を履修した後は、「文学国語」(4単位)を選択しない限り国語の授業で文学に触れる機会が著しく減少することになる。そして、多くの高校では「文学国語」を履修せずに「論理国語」(4単位)を選択するようなカリキュラムを作成していると聞く。現行課程で2年時以降、「現代文B」(4単位)の約半数の時間を文学鑑賞に充当できた点を踏まえれば、「文学が消える」と危機感を煽る言い方をしたくなる気持ちもわかる(共感はしないが)。
※古文・漢文についてはここでは考えないこととする。
しかし、前々回のブログで述べたように、「文学国語」との選択になっている「論理国語」との両立はカリキュラム上は可能である。それにもかかわらず「論理国語」のみのカリキュラムで決断した責任は、情報の錯綜はあれど現場の国語教師にある。新課程で「論理国語」「文学国語」を実施することが決定事項となったこのタイミングで、国語教師に何かしらの提案をせず、「論理国語」賛同者に向けた批判をしても状況がよくなるとは考えづらいのだ(愚痴ならばともかく)。
まとめると、彼女の記事の問題点はこうなる。
- 新課程で「文学国語」より「論理国語」を優先する決断をしたのは、(文科省にも責任はあるが)現場の国語教師である。それにもかかわらず、国語教育関係者への提案をするのではなく、新課程を作成した文科省(そして論理国語推進派の人々)を暗に批判するだけの記事に終始している。
- 上記の目的のためだけに、「高校国語から文学が”消える”」という正確性に書く表現で誇張している(ことばの教育に関する記事にもかかわらず)。
私が彼女の立場で高校の文学指導の充実を望むなら(ついでに、「論理国語」に出てくる高校のレポート指導が不要と思うなら)、
各学校は2年時の「論理国語」履修をやめ、「文学国語」を選択せよ
のような具体性のある発信をするが、それではだめなのだろうか??
(これに対しては、大学入試を踏まえると「文学国語」優先では保護者の支持を得られない、という懸念があるのを聞いたことがある。しかし、杉本氏やこれまで取り上げた新課程国語への批判者の意見に本心で賛同するのであれば、文科省に物申すのと同時に”「文学国語」で大学入試に対応する指導をします”と保護者を説得するような発信をするのが筋だと考える。筆者はどちらかといえば保護者に近い立場なのだからなおさらである。)
付け加えておくと、国語教育におけるこの手の主張は杉山氏が初めてではない。
有名どころだと、文學界 (2019年9月号)の特集「『文学なき国語教育』が危うい」が挙げられよう。
しかし、私の認識では、この手の特集に関わった方々は総じて事実関係の確認が甘い。
学習指導要領の確認も、推進派の主張の引用もほとんどしない。
断片的な情報を鵜呑みにし、まともに裏を取らずに発信する。
(国語教育の専門家ではない私でもその程度の裏取りはする)
さらに、それだけでなく、文学鑑賞の時数減(ゼロではない)を「文学が消える」「文学なき国語教育」のように誇張して状況を煽り立てる。
そして、文科省や論理国語推進派を暗に批判しながら、直接の当事者である国語教育関係者に対して現実的な提案をしない。
辛辣な表現で大変に恐縮ではあるが…
彼らはほんとに「ことばの専門家」としての自覚があるのだろうか??
そう言いたくなるのが私から見た現状である。
本音を言えば、国語教育の専門家ではない私にとって、高校の国語教育がどう変化するか自体は重要ではない。
しかしながら、学業の根幹であるはずの国語についての議論で空回り(に見える状況)があまりに続いている。国語教育関係者から今回のブログのような発信があれば別なのだが、現状では賛否はあれど、”では、現状をどう変えるのか”まで踏み込んだ発言が少なすぎるのだ。挙句の果てに「小説を読まない者は非教養人」という発言まで飛び出す現状は、当事者でないにもかかわらず危惧せざるを得ない。
私の本ブログにおける方針を再掲し、本稿を締めくくりたい。
”私は文学にさほど興味はないが、文学は重要だという者の権利は全力で守る。ただし、文学以外の書物を好む者の権利も同様に守れ”。(元ネタ)
最後に、少しばかり情報提供を。
まずは今回取り上げた杉山氏の著書から(これから読む)。
批判の対象とさせていただいた以上、対価を払うのが礼儀だと思うので。
それから、国語関係学会の要項および動画。
最近はコロナウィルスの影響で学会関係者によるオンライン会議が増え、専門的な議論に直接参加できる場面が増えてきた。その中で有益と思われる情報も得られたのでいくつか紹介する。特に2つ目のリンクにある国語教育のトゥールミンモデルは参考になるのではないか。