”「文学」は心を豊かにする”についての一考察【追記あり】 #国語教育

【2021.1.4追記】
この記事の本旨は、基本的に国語教育関係者の発信内容を焦点にあてたものである。

端的に言えば、関係者の「文学は大事」的な発信を問題視する内容である。

よって、この記事で国語授業の”内容”には踏み込んでいない。

見てくださった教員関係者からご指摘いただいたので念のため。

 

 

【ここから本編】
はじめに。

 

私がブログやSNS(Twitter)で国語の問題について発信を始めたのは20208月である。

そもそも、私がこのブログを立ち上げたのは、ネット上の知見をより多角的に伝えることにあった。

2020年末の現在、インターネット上には数多くのコンテンツがあるが、よ~く探してみると、”なんでもある”とはいいがたいのが現状なのだ。

例えば、科学史上の大論争を引き起こした『二つの文化と科学革命』の著者C.P.スノーのWikipedia記事は、2008年に私が執筆するまで存在していなかった。「〇〇教育」の記事も、私が編集するまではまったく統一感がなく、内容も貧しかった。また、ガリレオニュートンのような科学系の偉人を解説する動画も、私がニコニコ動画に投稿した2016年まで存在していなかった。

www.nicovideo.jp

 

そんな私が、最近では「論理国語」をめぐって発信を続ける。なぜか。

 

私自身の求める「教養」の根幹が「論理国語」的な読み書き能力の向上にあると考えるからだ。

 

しかし、私の観測範囲でも、「論理国語」(的な国語教育観)への反対意見が今なお多い。特に、文学指導時間の減少に対するものが。

・本を読まない日本人が増えてしまう。

・日本人の心情理解力、想像力、道徳心が育たなくなる。

・日本の文化、伝統に無知な日本人が増える。

など。

 

私は2020年以降、”文学に対してはドライ”と公言している。

ただ、この手の主張自体には一定の理解を示している。

読解力指導の中心は国語の授業にあるだろう意味で高校の国語教育は推進されるべきだと思うし、国語教育の目的には道徳的要素や文化的要素の涵養も含まれると思うからだ。国際社会だからこそ自国のことをよく知っておく必要があるとも聞く。

(この点、もし語弊のある表現があれば私の国語力不足である)

 

ただ、私はそれを改善する手段を文学一本に求めることを疑問視する。

はっきりいう。

その手段は、文学でなくともよい。

 

読解力指導を身に着けたいならば、評論文でもよい。

道徳心の指導ならば、偉人や有名人の伝記や哲学書でよい。

文化・伝統を育むなら、歴史の授業や歴史評論でよい。

 

 

念のため。

私は国語の授業(文学を含む)でその手の指導が無意味とは思っていない。

それを唯一の手段であるように語ることの誤りを指摘したいのだ。

 

もしかしたら、彼らは言うのかもしれない。

評論も伝記も文学だし、歴史の原典にも文学作品があるでしょ?と。

 

しかしながら、彼らのいう「文学」の具体例に評論や伝記(あるいは非文学的文章)が入っているのを私は見たことがない。

私が目にするのは『走れメロス』『山月記』『羅生門』『こころ』『舞姫』のようないわゆる近代の定番文学教材の話ばかりであり、ときどき『源氏物語』『徒然草』『土佐日記』『論語』のような古典作品、『マクベス』『罪と罰』のような海外文学を見かけるくらいだ。

要するに、一般論として「文学」を語っている割に、そのサンプルが著しく偏っているのだ。

 

新課程の国語に反対する方々は口をそろえて「実用文の読解は大事」という。

しかし、彼らが具体的に語る国語の具体例は、決まって「文学」の話ばかり。

 

曰く、論文作成は高校段階でやる必要はない。(但し、産業界の要請あり)

曰く、高校生になれば実用文は誰でも読める。(但し、PISAの学力調査で指摘あり)

曰く、実用文推進派は文学作品をバカにしている。(ここはノーコメント)

 

そんな彼らの言説から、「評論も伝記も大事にしている」「実用文も大事にしている」と読み取ることは困難である。

少なくとも私には、彼らの言う「実用文は大事」的な主張は”枕詞”にしか感じられない。

もし、本心で「実用文は大事」と思っているのなら、『論語と算盤』でも『学問ノススメ』でも『沈黙の春』でも、上記のようなステレオタイプ的な文学作品とは異なる作品についてもバランスよく言及すべきと私は考えるが、いかがだろうか。

 

さらにダメ押しするなら、いわゆる文学にはエロ・グロ・ナンセンスが多分に含まれるものも少なくない。

なかには『バトル・ロワイヤル』のように現実世界の事件に発展したものもあるし、

そこまでいかずとも、『絶歌』や『ちびくろさんぼ』のように社会問題化した作品もある。

(詳しくはないが、こういうのを”文学の毒”と呼ぶらしい)

 

国語教材としてふさわしくない、というならば私も完全同意である。

私はそうした作品を国語の授業で扱えというつもりはない。

 

しかしながら、その手の作品だって「文学」のカテゴリに入るのは自明である。

まさか、教育上ふさわしくないから「文学ではない」とは言うまい。

ただ、国語教育で定義する「文学」との整合性をどうつけるのか?とは投げかけておきたい。

 

 

さて、ここで「読書は教養を深め、視野を広げる」的な言説について触れよう。

私はこの手の主張には基本的に賛成の立場である。

 

ただし、これを主張する者が文学ばかりを推す場合、話は変わってくる。

 

 

この話をする前に、「機会費用」の話をしておく。

もとは経済学の用語であるが、そう難しい概念ではない。

限られた時間内ですべき作業ABがあったとき、

Aに時間を割けば、Bに割くべき時間が減少する、そういう考え方である。

 

これを読書に適用するとどうなるか。

限られた読書時間を文学に費やせば、それ以外の読書の時間が少なくなる。

もっといえば、インターネットやほかの趣味に時間を費やせば、

文学作品を含めた読書の時間が減少することになる。

 

義務教育を終えた高校段階では、ある程度は生徒のやりたいことをさせるのが望ましいはずである。

(もちろん、反社会的なこと、倫理的に問題のあることは禁止・制限すべきだが)

 

そんな高校生に文学ばかりを勧めることが、どういう結果をもたらすか。

 

これは私の推測でしかないが・・・

間接的に、文学以外をやりたい生徒の時間を奪っているとは考えられないだろうか?

興味がないばかりか、興味があることを間接的に否定され、

逆に文学(読書)への興味を失う結果にはならないだろうか?

 

これは私の個人的な経験だが、私は中学以降、国語の授業以外ではほとんど文学には手を出さず、自然科学や社会科学系の本ばかりを読んでいた。一部の友人から文学を勧められても読まず、挙句に読書ジャンルの違いから変人扱いされたのは良い思い出である(いや、よくない)。経験上、興味関心が異なっている場合には興味関心を近づけなければ読もうとはしないし、読んだとしても不本意な感想を持って終わる可能性が高いだろう。

少々余談ではあるが、池上彰氏の著書『社会に出るあなたに伝えたい なぜ、読解力が必要なのか?』 (講談社+α新書)からの引用。

それでも小説がどうも苦手だという人には、実在の人物の生涯を綴る「伝記」というジャンルもいいでしょう。 子ども向けの伝記は(中略)偉人の「不都合な真実」が編集でカットされていますが、大人向けのノンフィクションの伝記は、人間の表と裏とを冷静に俯瞰することができます。

 

また、かりに高校国語の授業で文学に目覚めた場合はどうか。

唐突だが、フランスの社会学E.デュルケム『道徳教育論』の記述をここで引用する。

(私の大学時代のバイブルの1つである)

多様で揺れ動き、矛盾し合いながら、また相互に絡み合っており、いちいち枚挙するにはあまりに数が多く、多彩な性格を持った個性的人間――このような人間は、フランスの劇作家たちの描いた主人公たちの中には見当たらない。歴史上あるいは架空の人間に具象化されたのは、紋切り型の感情だったのである。(中略)我が国の作家たちが描いて見せる、単純で抽象的な人間感情の背景に、ゲーテファウストシェイクスピアハムレットに見るように、垣間見ても充分きわめることのできない、底知れぬ深淵を感知することは、極めて稀である。(p410-411

デュルケムの想定しているフランス文学観が、現代の日本文学にどこまで当てはまるかはわからない。ただ、のちの記述で、デュルケムは彼の言う”紋切り型の感情”から脱出する手段に、他国の文学ではなく科学教育(特に生物学)を挙げている。さらに、別のところで芸術(文学を含む)の道徳的意義についても言及されているが、科学教育や歴史教育に比べ軽い位置づけをしている。

この点を踏まえる限りでは、日本文学であったとしてもある程度当てはまっているのでは?と私は推測している。つまるところ、高校レベルの文学(に偏った高校生活)が「教養を深め、視野を広げる」に結びつくとは考え難い、というのが私の個人的見解である。

まして、先述のように、紹介される「文学」のサンプルが偏っているならばなおさらである。

 

 

総括しよう。

多感な高校生の興味関心を犠牲(?)にして文学を強制することで、本当に「教養を深め、視野を広げる」が成立するのか??

 

以上の見解から、私はかなり懐疑的である(エビデンスはないが)。

もし、この手の見解に詳しい方がいたら、ぜひぜひ”論理的な説明”をお願いしたい。

 あるいは、反論となるような文献などを紹介いただきたい。

あるいは素朴な感想でも。