ひろゆき氏の古文漢文不要論に、国語教育関係者は何を思うか #国語教育 #こてほん

久々に国語教育に話題に触れる。
今回は主に古文漢文の話題。


2月中旬より、こちらの記事が話題になっているようだ。
記事の執筆者はひろゆき氏。


古文や漢文よりも「困ったときの役所の使い方」を義務教育で教えるべき

nikkan-spa.jp


Twitter上で話題になっているのはYahooの転載記事であるが、Yahooの記事は一定期間たつと消えることが多いため、転載元のSPAの記事を挙げる)

本ブログの立場を述べる前に、論点が拡散しないよう前提条件を確認する。
・記事の発端は、シングルマザーの子育て不安への悩み(養子に出すことを検討するレベル)にひろゆき氏が回答を試みたこと。
・記事の趣旨を私なりに解釈すると、「学校(≒義務教育)は、役所に子育て支援相談に行くなど、生活に役立つことを教えていない。子育て支援より教師の雇用を優先している」である。
ひろゆき氏が優先度が低いと考える教育内容の例として、記事では古文漢文が取り上げられている。


以上3点を踏まえ、本ブログの見解を述べたい。

 


”ほぼ同意”である。

 


国語教育の関係者ならば、古文漢文の必要性を堂々と疑問視するひろゆき氏の見解に何かしら意見を言いたくなることだろう。が、今回伝えるべき本当の相手は、生活に困窮し、子育てに深く悩んでいるシングルマザーであることを忘れてはいけない。さすがに、彼女のような立場の者に「子育てよりも古文漢文を」と説く教育関係者はいないと信じたい。

あるいは、彼女の当面の悩みに寄り添いつつ、長期的な視点から古文漢文の意義を説こうとする方もいるかもしれない。その場合、伝え方は「日本語・日本文化のルーツ」「現代日本語力の強化」「人文科学系の教養の幅を広げる」などいくつかの観点があるだろう。

ただし、その場合でも他の科目・項目との優先順位を意識しながら言及しなければならないだろう。本稿では詳しく立ち入らないが、少なくとも高等学校で古文漢文の授業を「必修」とすべき積極的理由を私は見いだせない。古文漢文の意義自体は私もある程度理解するが、「選択でよい」「原文に触れる必要はない」「小中学校でも学んでいる」と言われれば返す言葉が思いつかない。

 

この件で思い出すのは、2018年に東京で行われた古典シンポジウムである。

手軽に内容を知りたい方は、こちらのブログが参考になる。

「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

dain.cocolog-nifty.com

このシンポジウムの内容は、のちに書籍化されている。

www.amazon.co.jp

このシンポジウムは、高校の古典教育への危機感(古典教育の存在意義を疑問視する多くの声)から、反対意見に耳を傾けつつ古典教育の意義を考え直すものであった。詳細はブログか書籍をご覧になっていただきたいが、賛成派・反対派の意見がかみ合っておらず、コンセプト通りには議論が深まらずに終わった印象がある。
個人的に不可解なのは、今回のひろゆき氏の記事の賛否を述べる際、観測範囲では誰一人このシンポジウム(あるいは書籍)について言及していないということ。この記事を書いたひろゆき氏もシンポジウムの存在を把握しているようには感じないし、シンポジウム関係者はひろゆき氏の見解について何も触れようとしない(無視しているのか、把握していないのかは不明)。シンポジウム内容がいかに浸透していないかが浮き彫りになったと私は見るが、本稿の読者はどう見るだろうか?

 


最後に、古文漢文とは別の切り口でひろゆき氏の見解にコメントしておきたい。

彼への批判/賛同というよりは、この話題を掘り下げるための私見である。


それは、そもそも、学校教育で「役所の行き方」のような指導は”有効”なのか?という疑問である。(できる/できないではないことに注意されたし)

断っておくと、私は「役所の行き方」のような実用的な内容は基本的には教えるべきという立場である。個々の教師にもそれくらいの知識は持ち合わせていると理解するし、”教えろ”という方針が出れば教えることはできるだろう。

ただ、それを学校で教えるのは”有効”なのか?。


おそらく、学校単位、自治体単位で方針を出すことはできるだろう。
だが、保護者は、社会は、そこを優先的に尽力した学校・社会を好意的に評価するだろうか?
私の意見はNoである。

 

社会が評価するのは、究極的には進学・進路実績か、いじめ等の学校対応くらいではないか。
近年話題となっている、アクティブラーニングやプログラミング、SDGsにLGBT教育なども、最終的にはその文脈につながらなければ好意的には評価されることはないはずである(だから指導要領改訂や入試制度改革が話題になる)。子育て支援に時間を割き、受験やいじめ対策がなおざりにでもなれば、その学校・教師への評価は十中八九マイナスに傾くだろう。

そして、今回のような事案に対し、国語教員にできるのは、せいぜい多量の文章を読み、考え、伝えるというリテラシー的な部分に限られるのではないか(つまり、論理国語的な授業?)。そして、今回のひろゆき氏の見解に賛否を唱える場合、そうしたリテラシー部分と古文漢文指導との関係にフォーカスした議論をするのがもっとも生産的なように思われるが、いかがだろうか?

もっとも、後半部分(特に社会が学校をどう評価するか)は私の私見であり、関係者が「そんなことはない」といえば棄却されるレベルのものである。個人的には、関係者からは積極的に「そんなことはない」と発信していただきたいとすら願う。

 

【おまけ】

今月末、今回紹介した本の続編が出るようである。

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【追記】

公開1時間でタイトル変更。旧題は「古文漢文VS役所の使い方論争に、国語教育関係者は何を思うか」。タイトルに「不要」や執筆者の名前がないと、この問題に関心をもつ人の検索にひっかからないことに気づき変更する。個人的に、人名はタイトルに持ってきたくはないのだが・・・。