古典必要・不要論を前進させるための論点整理 #古典 #古文 #国語教育

前回取り上げたひろゆき氏の記事(?)の内容が、アベプラという番組で動画化された。

内容としては良くも悪くも2年前のこてほんシンポと同水準であり、この議論が2年前より多くの方の目に留まった点をよしとする一方、議論の進展のなさには不満がある。

とはいえ関心のある方には必読である(できればAbemaTVの公式版も)。

【古文漢文】「要らなくないすか?」ひろゆきがぶち上げた"オワコン論争"物議に…なぜ必修課目?カリスマ古文講師&ブルガリア出身の研究者と激論【受験】【義務教育】

www.youtube.com

ノーカット版▷http://abe.ma/3bDUONa

 

この番組についてもすでにいくつかの記事がある(ただし、なぜかはてなブックマークではほぼ検索されない)ため、この動画の感想そのものをここで述べるつもりはない。私の問題意識は、自身の立場(多種多様な学問を学びたい)からこの問題を進展させるための提言のつもりである。まだまだ粗削りであるが、時間をかけすぎて時期を逃したくないため思いつく限りをまとめることにした。

 

 

なぜ古典脱必修化論は古典不要論にすり替わるのか

 まず、古典推進派が問題視する見解は、厳密には以下の2つに分類できる。
 ・古典脱必修化論:学校教育(小中高)の古典科目を必修から選択に変更せよ
 ・古典不要論:学校教育(小中高)から古典科目を必修・選択から除外せよ

 ちなみに、同じノリで古典必要論を定義するなら、以下の通り。
 ・古典必要論:学校教育(小中高)の古典科目(特に必修)を維持・推進せよ

  前者は本質的には"選択科目では残すべき"の立場なので、後者とは区別される立場にある。とはいえ、高校物理のように選択科目となった時期から履修率が大幅に減った事例もある。古典脱必修化の立場から古典推進派に異議申し立てをする時点で、推進派がそうした危機感を持っていることは意識しておいたほうがいいだろう。
 なお、古典推進派も、そうでない立場も、本来古典が必修か否かは、究極的には教科・科目間の時間の奪い合いであることを自覚しておいたほうがいい。そして、そのための折り合いをつけるためには、「古典」という科目・分野で何をどこまで教えるかについて踏み込んだ議論が必要となる。このブログ記事が部分的にでもそのための材料となれば幸いである。


・古典推進派は推進する古典の存在意義を示せているか?

 古典推進派の主張は、とかく多岐にわたる。アベプラの動画でも、2年前のシンポジウムでも、論点がころころ変わり収束する目途すらたたずに終了した。抜け・漏れはあるかもしれないが、私なりに論点を整理すると以下の3つに大別されるだろう。
 観点1:古典で日本の文化・伝統・歴史は有効に教えられるのか
 観点2:古典で現代の社会問題を解決する知見は得られるのか
 観点3:古典で現代社会を生き抜く資質・能力は育めるのか

 この3つの観点から、必修に足るだけのYesが出れば古典必修は維持できるだろう。
 しかし、現時点での私の見解は”すべてNo”である。
 その最大の理由は、日本の国語教育には次の<前提>があり、その前提を推進派があいまいにしたまま言及しているためだと考える。

前提1:

 現行の古典授業の実態は、日本の古典文法で書かれた文章(原典)の読解指導が中心。よって、諸外国の古典や明治時代以降の古典は対象外。(漢文は例外)
前提2:

 国公立大学の多くは入試問題に少なくない割合で「古典」を出題する。少なくともセンター試験(新テスト)に占める古典の割合は国語の50%。
 以下、観点1~3について言及する。

 

・観点1(文化・伝統・歴史)について
 古典教材から学ぶのは基本的にはケーススタディ(具体的・詳細だが一般性に欠ける)である。多くは執筆者の世界観から当時の時代をにおわせるものであり、中には「平家物語」のような時代をさかのぼって書かれた作品もある。ただ、ケーススタディとなるがゆえに、歴史・時代の全体像を捉えることは時間的・原理的に不可能となる。
 そのため、観点1を推すならば歴史教育や現代文(古典を含めた日本語評論)との連携が不可欠となる。
 ところが、古典の専門家から歴史教育・現代文教育をどうするという話はほとんど聞かない。教科横断が言われ始めているご時世で自分たちの専門のことばかりを語りすぎている印象がある(正確には"自身の専門外について語らなすぎ"というべきか)。歴史については教科が違うという問題もあろうが、現代文については同じ国語科なので、連携自体は難しくないはずである。
 ついでに言えば、観点1について、古典推進派は類似の諸外国の例をきちんとリサーチし、多少なりとも言及したほうがよい。この問題にすら言及せず「古典は大事」と主張するのは、古典教育についてのやる気を疑われるレベルだと私は思う。

president.jp


・観点2(問題解決の知見)について
 前提1で述べたように、国語教育の分野「古典」には、人類の叡智としての古典からみると著しい制約がある。繰り返すが、漢文を除いて諸外国の古典や明治時代以降の古典は"対象外"である。

 だから、アダム・スミスケインズも扱えないし、福沢諭吉吉田松陰も扱えない(かなり致命的)。そもそも「社会」や「経済」という概念自体西洋の学問の輸入なので、前提1のような縛りで社会問題の知見を得ようとすること自体に無理がある。

 それゆえ、問題解決の知見という意味でも現行の「古典」は非常に心もとない。実際、古典と称する知見でもって、議論の大元であるシングルマザーに対し先人の知恵を提供した古典推進派はいなかったと理解している。
 それどころか、老子の「無用の用」、松尾芭蕉の「不易流行」という長期的には有益と思われる知見もあるはずなのに、古典推進派の多くは一般論に終始している印象だ。
(さらに言えば、今回のゲストはどちらも古典文学の専門家。漢文についての言及も少なかった印象)

 私見では、私は日本という国を”他国の文化・技術を貪欲に吸収し内面化することで発展・維持してきた国”だと理解している(他国でも多少なりとそういう面はあるだろうが)。観点1のような日本固有の文化・伝統もある程度学ぶべきとは思うが、他に学ぶべきことが増え、日本経済が困窮し始めている現実がある中で「古典は大事」と言い続けることに私は違和感しかない。

 古典推進派は一般論として「人類の叡智」としての古典を解き、脱必修化論・不要論に反発するが、自身が推している「古典」の制約を正しく理解しているのかかなり疑問なのである。

  明治時代の古典(国語では現代文扱い)『学問ノススメ』を引用して、この観点の考察は打ち切ることとする。

学問とは、ただむずかしき字を知り、し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(中略)今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

 


・観点3(資質能力)について
古典推進派の立場に最大限寄り添うなら、私はここが最大の突破口になると考える。
(もとの動画ではあまりこの観点は重視されていない印象だが)
国語という教科の枠で"国語を活用する"場面となれば、作文指導の一環として"翻訳"や"解読"が有効という面は理解する。そして「国語」という科目で国語以外の言語を扱う性質上、おそらく古典文法で書かれた文献(前提1の意味での古典)を扱うのが妥当だろう。
 ただし、その場合でも以下の4つの疑問に答えておく必要がある。
 疑問3-1:限られた時間でどこまでのスキル習得を目指すか。
 疑問3-2:”現代社会を生き抜く”という目的との因果関係をどう説明するか。
 疑問3-3:翻訳済みの文献や機械翻訳とどう両立するか。
 疑問3-4:そもそも古典学習が資質能力向上に有益なのか(エビデンスはあるか)。

 現時点で私はこの疑問について詳しく言及している余裕はないため、詳細は割愛する。
 いずれ、時間のあるときにこの詳細をブログでまとめることにしたい。

 参考:高校国語教育の改善に向けて(日本学術会議

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t290-7.pdf

 


・最後に
 古典に関する今回の議論は、究極的には優先度の問題になる。しかしながら、優先度を議題とするなら、本来は他分野の存在意義についてもある程度具体的に言及されなければならないと考える。とりわけ、ひろゆき氏が古文漢文について言及するきっかけである"子育て支援社会保障を学校教育でどう扱うか"についてはそれ単品で言及・議論が必要なのではと思う。
 ところで、一部SNS上では古典と比較する形で「微分積分」についての話題が取り上げられていた。せっかくなので、次回のブログでは「数学教育における微分積分の有用性」を論じてみることとする。子育て支援についての言及もいずれ、少なくとも知りうる情報源くらいは出したいと思う。(おそらく、そのころにはこの手の議論は下火になっているだろうが)

 

参考:

togetter.com