論理と文学の分断を招いたのは誰か? #国語教育 #論理国語

【はじめに】
今回も新課程国語への言説に対し批判を申し上げる。
今回は高校や教師個人に対し厳しい意見になることをはじめに申し上げる。
とはいえ、私は部外者ではあるが先生方の日ごろの活動には敬意を持っているつもりであり、特に近年、#教師のバトン で言及されるほどの多忙感があることは理解しているつもりである。

ただし、本記事の内容はそれとは別で言及されてしかるべきと考えるものであり、何より、不確かな情報源で現場が振り回されていることを心苦しく思うゆえの内容である。(いつも以上に)書いていることの齟齬や不備があればご指摘いただきたい。
コメントかSNSなどで発信いただけるのが一番有りがたいが。


【本題】

論理と文学の二分問題(新課程高校国語で論理と文学を二分するかのような教育課程の問題)は以前にもブログで取り上げたが、今なおそれを問題視する声は大きい。多くの記事は、以下の観点で共通しているというのが私の認識である。
・文学にも論理があり、文学と論理を分断するかのような新課程には問題がある。
・大学入試の都合で「論理国語」を選択する学校が多く、「文学国語」の選択は少ない。
 また他の科目の兼ね合いを考えれば両科目の同時履修は不可能。
・高校国語において、名作との出会いの場として文学の授業は重要(不可欠?)である。


また、論者によって意見がまちまちなのが、論理国語の内容についての反対意見。
私なりに集約すると以下の通り。
・論理国語の内容は契約書の読解。ほとんどの生徒は興味を持たない。
 (SNS上では契約書読解に関心を持つ者を変人扱いする意見もあり)
・論理国語の内容(特に論文読解・執筆)は大学で扱うほうが望ましい。
・論理国語の内容は現在の国語教師には指導できない。
 (中には社会科・情報科など他教科の教師に任せる意見もあり)

 

以下、本記事のために私が拝読した記事をリストアップする。
まずは批判的な立場(圧倒的多数)から。

 

「文学国語」の可能性① ―「学習指導要領」の読書感想文|神楽坂いづみ|note

暮らしと学問 23 論理と文学は分けることができるのか?|氏家 法雄 ujike.norio|note

【教育】2022年からの国語はトリセツが教材に…。私なら養老孟司や河合隼雄のエッセイを教材に使いたい|ハッピー書房(本と人生を考える)|note

新しい高校の選択科目「論理国語」という語の初出は文科省か、出口汪氏の著作か?|空の芽|note

上野さん、これは間違っています。|kensuke|note

論理を下支えするもの|こにし|国語科|note

「文学的」とはどういうことか?―文学と論理のはざまで|ちいさなへやの編集者|note

高校国語の科目再編 論理と文学、分断に危うさ: 日本経済新聞

契約書か漱石の『こころ』か、どちらかしか学べない? 高校国語の新学習指導要領に困惑の声 (1/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

東大文学部の白熱シンポジウムを書籍化、日本の教育改革にメス “ことばはツール”なのか? (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校の国語から文学作品が消える!? 2022年の新学習指導要領に東大卒ママが物申す (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

内田樹「子どもたちには『論理国語』よりもコナン・ドイルを」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校国語で小説軽視?作家ら懸念 22年度に科目再編、「文学」と「論理」区別:朝日新聞デジタル

<特集「文学なき国語教育」が危うい!>現役高校教師座談会 「文学」で「論理」は十分学べる | 特集 - 本の話


国語の大論争 「論理国語」と大学入試 (中央公論)

 

そして、論理国語を是認する立場の発信はこちら。

「現代文」が「論理国語」「文学国語」に!文学離れは本当に起きるのか【出口式「論理エンジン」の考え方】 - バレッドプレス(VALED PRESS)

【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(60)論理国語は素材次第だ - 産経ニュース

 

 

ちなみに私は、新課程国語には肯定的な立場である(改善の余地は認めるが)。
その主な理由は以下。詳細はここでは述べない。
PISA等の国際的な学力調査で高校生の読解力に課題がある。
・国内の産業界からもより高度な国語力を求める声がある。
・現行の国語教育は文学教材の読解・心情理解に著しく偏っていた。
 (少なくとも、そのイメージを払拭どころか強化する発信が今なお多い)
・高校生の教材への興味関心の幅は様々。文学の過剰な押し付けは害悪である。

 

 

そして、論理と文学の両立(「論理国語」と「文学国語」(そして古典)の同時履修)は、少なくとも文系については十分可能であると言及した。
あえて過剰に書くが、”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである。
詳細は私の過去ブログをご覧になられたい。

 

また、少なくとも学習指導要領上、「論理国語」「文学国語」の減単位(4単位→3単位)も可能である。
標準単位に過剰にこだわる必要はない。(文科省でもそれを容認する声があると聞く)
重要なのは学習内容・スキル習得であり、時間はそのための手段でしかない。
時間数が足らなくとも、まったくやらないよりははるかにましだと私は考える。

 

 

 

さて、以上のことを踏まえ、本題に入る。

論理と文学の二分を招いたのは誰なのか?

 

 

 

 

 

 

 

文部科学省か?あるいはその関係者か?


半分正しいが、半分間違っている。
それが本記事の私の主張である。

 

 

 

 

確かに、新課程の国語を作成した責任は文部科学省にある。それは間違いない。
しかし、公開された新課程をもとに、自身の裁量で「文学国語」の履修を断念したのは、まぎれもなく個々の高校側である。

 


昨年も言及したし、何度でもいう。
論理国語と文学国語の両立は”可能”である、と。
”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである、と。

 

この手の主張が正しいかどうか検証もせず、同時履修が不可能だと思い込み、大学入試に不利という理由で「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。
(当然であるが、文科省サイドはそのような発言をしていない。)


また、仮に両立不可能だったとしても、
「文学国語」単独で「論理国語」の目指す学習事項の履修も可能なはず。
”文学でも論理が十分学べる”という国語教育関係者も少なからずいるのだ。
彼らの実践をつぶさに学べばいい。
例えばこれ。

 


それにもかかわらず、”文学でも論理が十分学べる”という発言を信用せず(あるいは知らず)、”大学入試に文学国語は不利”という他校の動向をうのみにして「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。

 

付け加えておくと、私自身は「論理と文学の二分」を容認する立場であるが、その理由は「文学に論理がない」と主張するためではない。高校国語が目指す「論理的な読み書き」実現のために、いわゆる文学教材とその他(評論文から契約書まで)では論理の性質が違いすぎると考えるからだ。

論理と文学の二分に違和感を唱える方々で、その両者の論理の違いを言及しているのを私はまだ見たことがない。
穿った見方をすれば、それくらい彼らは文学以外の文章、あるいは「論理」そのものに興味がないのかもしれない。

 

もし「そうではない。文学以外にも一定の関心を持っています(授業をしています)」というのであれば、ぜひとも情報(情報源)を発信するなり、論文・書籍などを紹介するなりしてほしい。
少なくとも私は、見つけ次第拝読させていただくし、しかるべき対価を払う用意もある。

 


僭越ながら、このブログ記事が国語教育の改善に寄与すれば幸いである。 

次回こそは数学教育の話をしたい。