政権批判の自由はあれど、雑な推論はやめましょうという話

かなり久々にブログを更新する。

最近の発信はTwitterとTogetterに傾倒してしまったが、今回の話はTwitterで発信するのに向いていないと考え、ブログにて発信する。

 

ここ最近、国語教育の話ばかり発信している私だが、今回はやや政治の話。苦手な方は注意して読んでいただきたい。

 

 

【本文】

ここ数日、論理国語に関する以下の記事が再びSNS上で注目を集めている。1年前の8月、私が国語教育の発信を始めたきっかけの記事でもある。

 

 

その背景は10月末の衆議院選挙にむけて政権批判したい人が、批判材料として新課程国語を批判するというもの。例えばこれ。

両者ともにすさまじい勢いで拡散され、賛否を読んだ。

引用ツイートを見る限り、やはり新課程国語や文学軽視を批判する者が多め。

 

 

前者のツイートは純粋に記事に困惑していた様子だったので情報提供。第3者を巻き込む形にはなったが、割と良好なやり取りができた(多分)。

現在は私のくだらないツイートのフォロワーにもなってくださった。

 

 

他方、後者は実用文しか読まない人間をロボット呼ばわり。1年前の榎本氏といい、彼らは読書ジャンルの違う人間の気持ちへの想像力が不足しているように思う。文学愛好家が時々口にする「豊かな想像力」はどこへ行ったのか?

ともかく拡散力の強さによる第3者への影響を考慮し、ブロック覚悟で反論を試みた(ややきつめに)。

 

 

私のツイートが影響したかどうかはわからないが、この方のツイートはトーンダウン。RTやいいねは多いが、賛同するリプはほとんどなくなった。

反論もできたはずなのに、本人含めて反論はゼロ。

こちらは追撃を続けるだけ。

 

確認した後者の方の最後のツイート。このブログを書いている段階では反論しようかどうか思案中。

 

 

衆院選をきっかけに新課程国語に注目すること自体は悪いと思わない。1年遅れではあることには注意しつつも、納得するまで議論すればいい。

かくいう私自身が1年前からの発信だし、何より国語と無関係な部外者だ。

 

ただし、批判対象について下調べをするのは最低限のマナーだろう。事実誤認のまま煽情的な発信をすることほど見苦しいことはない。良くて徒労に終わり、最悪の場合は自分の足元をすくう形で帰ってくる。

表現の自由には、その程度の責任は伴うのだ(私の解釈)。

 

 

 

最後に、最近(文学的表現に苦悶しながら)読み進めているエラリー・クイーンの一節で閉めよう。

 

「真実とは不愉快なものだ。だが少なくともそれは真実”なのだ”。真実を知ればそれは知識となる。知識を持てば、君たちは永続的な決断をすることができる。」

(青田勝訳『災厄の町』p308より)

 

 

どうかこれ以降、私から政治的な発信をしなくて済みますように。