ゆっくり文庫風動画2023あと語り(その1)

2023年は3月末までに、以下の2つの動画を投稿した。

www.nicovideo.jp

www.nicovideo.jp

1月のブログでは『ダブル・ダブル』解決編の動画内容に言及していなかったので、動画投稿後の反応を含めてブログにする。 

 

1.『ダブル・ダブル』解決編

昨年10月のブログで言及したように、『ダブル・ダブル』の動画は越前敏弥氏の新訳出版の宣伝・応援の意味で作成した(繰り返すが、私は新訳出版・流通とは全く無関係である)。コメントで解決編を望む声があり、せっかくなので作成した。

そして、これまでブログで書いていたあと語り内容も試験的に動画末尾に入れた。キャスティングのことや解決編部分の改変要素も文章で言及した。このブログで記述するよりも読者の反応がいただけた意味でよかったと思っている。

他方、解決編の動画には多くの広告・いいねを頂けた一方、問題編に比べコメント(特に推理内容についてのもの)が少なかった印象を受ける。原作から説明の順序を変えたり補足を入れたりしたものの、視聴者にとっては難解だったのか、あるいは別の理由なのかわからないが要反省である。日頃お世話になっている動画投稿者間ではSNS上のやり取りもあるようだが、私はTwitter以外のツールを使用できないため、事前に誰かに聞けないのは少々もどかしい。

このブログを読んで気になった点などあれば、コメントいただけるか、動画投稿用のTwitterアカウント(@OSchloss2525)向けにつぶやいていただきたい。

 

2.『八つ墓村』(うっかり文庫)

気分転換で素材を作っていたところ、気づけば完成してしまった本作。

下記ツイートの通り、ゆっくり文庫界隈の金田一ブームに便乗するなら、と脳内で温めていた作品でもある。

上記の通り、数多くの翻案作品よりも原作寄りに作成し、登場人物削除も最小限にした(ツイートにもある小竹・小梅と、諏訪弁護士のみ未登場)。翻案作品で省略されがちな野村荘吉、新居修平、洪禅和尚、里村兄妹なども全員登場させた。

ちなみにシナリオ改編要素は下記の通り。

ちなみに配役、完結させた場合の計画については以下参照。

ネタバレ要素、マニアックな要素があるため、今回はぷらいべったーを使用。

(閲覧にはTwitterログインが必要なので注意、フォローは任意)

横溝正史八つ墓村』裏話(ネタバレ注意)

 https://privatter.net/p/9906421

 

 

 

3.次回の予定

2023年4月末~5月初旬に以下の企画があるため、その応援のために動画制作を予定。

www.nicovideo.jp

とはいえ、制作状況は良好とはいえない。

本業や教科教育系(特に国語)への発信もあまり犠牲にはできない。

 

応援はしたいが、どうなるかは4月中の取り組み次第。

このブログを読んで気になった点などあれば、コメントいただけるか、動画投稿用のTwitterアカウント(@OSchloss2525)向けにつぶやいていただけると幸い。

2023年、近況いろいろ

2023年になりました。

定期的にご覧になっている方、いつもありがとうございます。

 

今回、大したことは書きませんが備忘録として。

 

1.Bookmaterを復活

私の読書記録を読書メーターで見れるようにしました。

(大昔に使っていたものを復活させました)

よろしければご覧ください。

国語系は辛辣な評価が多めですがご容赦を。

勝手に星1~5で評価も入れています。

 

 

2.noteで記事作成にチャレンジ

はてなブログを再開しているものの、反響がよくわからないところがあるため、試験的にnoteを作ってみました。まだ記事はありませんが、そのうち何か書くかもしれません。(国語系の記事ははてなより活発になりそうな淡い期待・・・)


3.ニコニコ動画について

昨年8~9月に作成したエラリー・クイーンの動画の完結編を公開済み。

今回、キャスティングなどのあと語りも動画の末尾にいれました。

よろしければご覧ください。

 

問題パートや過去作はこちらから。

https://www.upload.nicovideo.jp/garage/series/258010?ref=pc_watch_description

 

ちなみに次回、何を作るかは未定。

今年5月をめどに軽めのものを作るかもしれない。

(文学系の投稿祭があるとか何とか・・・)

 

 

4.はてなブログについて

こちらも不定期に何かしら発信予定。

Note等に完全移行の予定は今のところない。

(短めでも何か発信したほうがいいのかもしれないと思う今日この頃)

ゆっくり文庫風動画2022あと語り雑記

長らくブログを休んでいた。

リハビリがてら近況を書く。

 

2022年9月までに、ニコニコ動画で9本の動画を投稿した。殆どは日頃お世話になっているゆっくり文庫関係者の取り組み支援を目的としたものである。以下列挙。

 

1.2022年3月、アガサクリスティ長編『ABC殺人事件』。

この動画は、ゆっくり文庫系投稿者のふかみどり氏が作成した動画のリメイク。何気に私がゆっくり文庫系動画でエラリー・クイーン以外を作成した最初の動画となった。

元動画が2022年1月頃に削除されていたことを契機に作成。

動画作成者であるふかみどり氏の「削除」という判断を汲むこと、とはいえ消滅してしまったことへのもどかしさから、「うっかり復刻」という形で投稿したというのが真相。盗作となってしまわないよう元動画の構成を再現しつつオリジナル要素も意識的に盛り込んだ。なお、本編では制作者の名前を伏せ、終盤のスタッフロールにて投稿者の名前をこそっと掲載してある。

ただしその4日後、元動画の制作者ふかみどり氏はまさかの復帰。

それだけでなく、かなりのハイペースで『ABC殺人事件』本編を投稿し、無事に『ABC殺人事件』を完結させた。正直予想外の形であったが、私の動画が良い意味での投稿活動の活性化につながった形だ(のちに本家ゆっくり文庫氏からもエールを頂き、めれんげ氏からはファンアートもいただく)。

なお、『ABC殺人事件』の前後でもふかみどり氏は精力的に様々な動画を投稿されている。ツイッターやメールなど直接的なやり取りができない環境ではあるが、ふかみどり氏の創作活動は今後も微力ながら応援したい*1

 

 

 

2.2022年4月、エラリークイーン短編『大統領の5セント貨』(+関連動画3つ)。

昨年に続くエラリー・クイーンの動画。昨年末よりエラリー・クイーン長編を作る気力がなかったため、短編で作成。もともと物語や人間ドラマより雑学の方が性に合っていたため、歴史うんちくを盛り込める本作を選択。物語としても知的さと話の盛り上がりが良かったのも好印象だった。

詳しいあと語りは省略するが、本動画のポイントは

  • エラリークイーン長編『緋文字』の前日談という位置づけ*2。なお私が『緋文字』を作成するかどうかは未定。

  • 登場人物は原作通り・・・ではなく、依頼人の父トビアスが兄、鑑定人の1人が『エジプト十字架の謎』のヤードレー教授の友人など、いくつか改変。
  • 150年前の回想は依頼人マーサから軽く語られるのみ。原作に登場したジョージ・ワシントン依頼人の先祖の台詞も全カット。
  • ラストはワシントンの生誕を祝いながら桜の木を切り倒すのではなく、生誕を祝いながら発掘された宝箱のカギを開けるに変更。原作通りだと依頼達成にあいまいさが残ると考えたため。ちなみにワシントンの誕生日を2月21日と勘違いしたまま投稿するという痛恨のミスを犯している*3
  • おまけとしてジョージ・ワシントントリビアを紹介。内容と雰囲気はテレビ番組「トリビアの泉」を踏襲。本編の感動が台無しになるが、21世紀の現代の視聴者向けに事実と整合性をつける必要があると考え、あえて盛り込んだ。

ちなみに本動画の制作中にニコニコ動画「10秒動画祭」という企画が進行していた。企画の応援を兼ねて、この動画を切り出す形で2本(そして無関係の動画も1本)、動画を制作し投稿している*4

 

 

3.2022年8月~9月、エラリークイーン長編『ダブル・ダブル』(予告編+問題編2つ)

きっかけは越前敏弥氏による本作の新訳出版。これまでエラリー・クイーンの創作動画を作ってきた延長で新訳出版の宣伝・購入促進につながればという思いで”勝手に”制作した(私は新訳出版・流通とは全く無関係である)*5

問題編のみで60分の動画になったため前後編に分割。解答編は『ローマ帽子の謎』同様省略してもよいかと思ったが、コメントを見るに解決編を望む声もあり制作予定(未制作+本業のため公開は早くて今年12月)。

本動画は過去のエラリークイーン動画以上に変更点が多め。主だった点のみ列挙。

  • エラリーと依頼人リーマがライツヴィルに戻る場面から本編スタート。それ以前のやり取りは回想で語るが、原作よりかなり簡素にしてある*6
  • 前半は事件の流れを優先したため、依頼人リーマとエラリーの親密なやり取りも中盤まで封印。前半でのリーマは内気で社会性に乏しい少女という地味なキャラ付けになってしまった*7
  • 本編は『フォックス家の殺人』のデイヴィー・フォックス視点で話が進行する*8。原作はエラリー視点であるが、推理小説として事実関係の客観性を担保する必要性からこのアイデアとなった。人選の条件はエラリーと登場人物との人間関係を壊さないことと、ライツヴィルの動向にある程度詳しいこと。
  • 町の哲人ハリー・トイフェル、診療所の女中エシィ・ピーガン、ライツヴィルの仕立て屋ワルド―兄弟は未登場。その他、多くのモブが未登場*9。原作より殺人件数も1つ減り、いくつかの事件の死因も大きく変更された。
    • 第2の事件:拳銃自殺→自動車事故
    • 第5の事件:自動車による圧死→転落死
    • 第6の事件:転落死→焼死
    • 第7の事件:焼死→なし
  • 女社長マルヴィナ・プレンティスとその部下フランシス・オバノンはメディア関係者から工場関係者に変更*10。変更理由はいろいろあるが、染色工場の株が度々話題になる割に工場関係者がまったく登場しないことへの不満が最大の理由。
  • 後編ラストで「読者への挑戦状」を挿入。タイミングは”チーフ”の襲撃直後。

 

4.2022年9月、アルフォンス・ドーデ『最後の授業』

エラリークイーン以外の動画第2弾。9月上旬のニコニコ動画企画「ソフトウェアトーク朗読劇場祭」のために突貫で作成。大まかな経緯はこの動画の10:08以降を参照。そして3月の投稿の延長で本家ゆっくり文庫様(正確には聞き手のきめぇ丸)から「ふかみどり氏を挑発した人」認定されてしまう(涙)*11 

この動画で盛り込まなかった補足をするなら、私が本企画に参加した根本理由、ニコニコ動画で投稿を続ける理由が以下の3点にあること。30秒という制約では冗長であることと、紹介作品への愛が語られるであろう本家ゆっくり文庫氏の動画(もっといえば朗読祭企画の阿久氏)に水を差す可能性を懸念したことから割愛した。

  • 投稿プラットフォームであるニコニコ動画界隈への貢献
  • 論理国語に端を発する国語教育への関心(現行の文学推しには批判的)
  • より関心度の高い歴史系・科学系・社会系の知への探究と発信

そして『最後の授業』という作品は著作権への配慮、制作期間の短さという制約の元での選択だった。私の本作に対する思い入れは作品内容と歴史的背景のギャップへの関心(そして界隈への貢献)であり、作品愛というにはかなりいびつな理由。とはいえこうした切り口で文学を語り、またそれが容認される風土が広まってほしいというのも本音。作品に没入できない私なりの文学の楽しみ方である*12

 

 

文学愛をリスペクトしつつ、文学そして言語・学問への多様な視点が共存すること。それが動画投稿者兼SNS発信者としての私の望みである(理想論であることは承知しつつ)。

*1:ちなみにふかみどり氏が『ABC殺人事件』本編を投稿しなかった場合、時期をおいてから私の手で本編作成を考えていたのは内緒。

*2:『緋文字』では、本作と同名の依頼人マーサが秘書ニッキーの友人として登場する。設定上、本作のマーサとは別人(名字も異なる)なのだが、秘書ニッキーの設定も作品ごとにバラバラなので統合した。

*3:一般会員のため修正は不可、かといってコメントを入れると動画に没入できなくなるためやむなく放置している。

*4:『大統領の5セント貨』予告、おまけの冒頭ダイジェスト、C.P.スノーの書籍紹介の3つ。今年のある時期から、私のツイッターおよびニコニコ動画のアカウントでは雪の結晶を模したアイコンをつけているが、それはC.P.スノーへの敬意から。ただしスノーの動画は視聴者の関心をあまりひかなかった様子。

*5:いつだったか、越前氏はエラリー・クイーン作品群の新訳出版で「売れなければ続編の翻訳が実現しなくなる」と述べていた。クイーンは日本の法律でも著作権が切れていないため動画作成を大々的にできないのだが、知名度の割に二次創作が少なすぎるため、微力ながら非公式の二次創作動画を作り続けている。原作に損害を与えたくないためせめて一般会員による無賃労働というスタンスをとっているが、私の完全な自己満足である。

*6:中盤の見立て殺人についての説明も簡素になったが、トム・アンダーソンの人物描写が割愛されすぎて「乞食」の見立て説明がかなり強引になってしまった。ニコ動のコメントでも指摘が出るほどに。

*7:新訳出版を担当した越前氏はリーマが大のお気に入りらしい。私の動画はまだ認知されていないようだが、越前氏に怒られないか実は若干心配している。

*8:原作ではフォックス家と長らく疎遠であることが言及されている。デイヴィーの立ち位置も『フォックス家の殺人』の後日談として矛盾がないようにキャラ付けをしたつもり。なお、デイヴィーの妻リンダも途中から登場する。

*9:タクシー運転手エド・ホチキス、居酒屋の店主ガス・オールセン、デイキン署長の部下ジープ・ジョーキングなど。例外として弁護士ホルダーフィールドの秘書フロッシー・ブッシュミルは容疑者並みに出番が増え、ワルド―兄弟に代わってエラリーの脅しを受けることになる。

*10:原作と異なり、プレンティスとオバノンは診療所の味方で、メディアに圧力をかける立場。しかし2人の性格設定はほぼ原作通りで、話の展開も違和感なくほぼ同じ。なお、原作よりプレンティスと研修医ケネス・ウィンシップのあからさまな対立描写が増えている。

*11:これとは別に、本家ゆっくり文庫氏からは私が熱心な界隈ウォッチャーであること、『最後の授業』の内容と背景のギャップが面白いとコメントされた。

*12:私は無邪気な文学愛自体は否定しないし、できれば水も差したくないが、様々な思惑が入り混じる教育や学問の世界で文学愛ばかりが語られるのは正直困るのだ。個人的に居心地が悪いというのも正直あるが、それ以上に論理国語に象徴される非文学的文章重視(もっと言えばリテラシー重視)の流れに対する否定的かつ煽情的な言説をとにかく黙らせたい。そうでなければ、教育・学問においていつまでたっても建設的な議論ができないと考えるから。付け加えるなら、内輪の文学愛が国語関係者間でくすぶっている(納得していないが迂闊に発信もできない)と思われる現状も国語教育において決してプラスにはならないと私は考える。

新年早々怒りの論理国語批判、国語関係者の黙殺が続いている件  #国語教育 #論理国語

新年早々、こんな記事を目にした。

dot.asahi.com

私が類似の記事から新課程国語の問題を取り上げて1年半ほどたつが、今頃になってこんな発信を見ることになるとは思わなかった。
しかも今回の発信者は山口謠司氏(文献学者・大東文化大学)。
国語の一領域、漢文の専門家からである。


1週間ほどTwitterで様子見をしていたが、今回も賛否が分かれていた。
今回に限ればやや記事に否定的なコメントが多めの印象。
コメント数が多く、今回は3つに分けてあるので、よろしければ下記Togetterをそれぞれご覧いただきたい。

togetter.com

 


元記事の発信の問題について、2020年の榎本氏とほぼ同趣旨なので言及する必要はないかと当初は考えた。が、SNS上での反響が高い一方、肝心の国語関係者の反応が観測範囲でもとにかく鈍い。山口氏の発信の雑で擁護しづらく黙殺しているというのが本音だと私は推測する。

私も彼の意見にはほぼ反対の立場だが、新課程開始前にここまで雑な主張をされても面倒なので、今後を見越して反論を試みる。

 

山口氏の記事の問題点は大別して「文学による情操教育を絶対視しすぎること」「学習指導要領や新課程推進側の見解にとかく無知であること」の2点に集約される。以下列挙。

  • 論理重視、文学軽視の流れを「明らかにおかしい」として立論としており、新課程の背景を(批判するにせよ)理解しようとする姿勢が伺えない。端的に言ってはじめからケンカ腰である。
  • 江戸時代の教科書『庭訓往来』と明治期の文豪(夏目漱石正岡子規)を引き合いに出し、江戸時代に逆戻り、深く物事を考えなくなるという推論に飛躍がある。”実用書を与えると考えなくなる”はそもそも当時の事実として存在したのか?そもそも比較対象が明治期の文豪なのはなぜ??文豪以外に明治期に多数の偉人がいたことを思えば、山口氏は文学の世界しか視野にないと邪推されても仕方ないだろう。
  • 契約書や取扱説明書のような文章に論理性を超える力はないと断ずる根拠は?契約書は確かに平易に書かれているものもあるが多くは建前上でしかない。そもそも山口氏が契約書の解説本や共通テストサンプルに言及する様子はなく勝手なイメージで言及している可能性が高い。そもそも論理国語自体、実用文以外に評論なども扱う科目である。批判対象である論理国語を不当に矮小化していないか。
  • 「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つ違いないと断ずる根拠も不明。私のように文学への関心を失った者がこれを聞いて何を思うかへの想像力が不足している(私個人は道徳性を否定された気分になる)。事例として挙げる「ごんぎつね」なども高校国語の事例としては不適当だし、そもそも高校国語は人格形成(情操教育)のみを目指していないし、人格形成重視の国語教育を問題視する国語系の論考も少なからず存在する。
  • 後半では大学入試から論理的文章が小中学校に前倒しで行われることをも危惧する文章があるが、山口氏は論理的文章をいつ習わせるなら容認するのだろうか?批判のタイミングが時期尚早であるし、結局のところ学年無関係に論理的文章を扱うこと自体に反対としか読めない。
  • 「文学は論理を超越する」は論理教育を是とするなら完全に悪手。論理的でない要素を含む文学は本質的に論理指導に適さないことになる。論理学自体が文学のようなレトリカルな要素を取り除くことで発展した経緯を真っ向から否定していることに山口氏は気づいているのか?
  • 論理指導をするならフランスのバカロレア式にすれば的主張も理解に苦しむ。それが実現した場合には現代日本文学どころか現行の古文漢文が大打撃を受けるが山口氏はそれを是認するのか?
  • 教科名が「日本語」でなく「国語」と呼ぶ意味を考えよと締めるが、すでに学会レベルで「国語学会」的な表現は少数派になっている点を山口氏はどう考えるのか?


怒り任せであるせいか、山口氏の論考は論理重視の流れを批判する立場でありながら根拠不足や論理飛躍がまま見られる。厳しい言い方だが、”論理国語批判が論理性に欠けている”という痛々しい事態と捉えられても仕方ない。


そして、この件とは別に気になるのが、この記事について国語関係者はほぼ沈黙している点。部分的にも山口氏に同意する/同意しない点があるなら切り分けたうえで発信するのが前向きな対応だと私は感じる。沈黙したまま新課程国語が4月からスタートするを彼らは容認するのだろうか。

 

私はこの期間中、数名の発信者に議論を試みた。

個人特定につながるため具体的な引用を避けるが、互いに納得できる議論ができた場合もあれば、そうでない場合もあった。幸いにも議論の最中にブロックされる事態は今回も回避できた。

ただ、共通するのは、教育関係者か否かを含め、多くがそもそも学習指導要領をまともに読んでいない印象。あくまで観測範囲と断っておくが、学習指導要領の根拠を求めると話を逸らしたりトーンダウンする方がほとんどなのが実情である。

 

山口氏の記事の反響は、1週間たった今かなり沈静化している。
私としては専門家からもっと掘り下げた論考を見てみたい。

 

・・・と思った矢先、今度は読売新聞の社説。

www.yomiuri.co.jp


読売新聞は私が知る限り、他紙ほど新課程国語については言及してこなかった印象。
何をいまさら、とだけここでは言及しておく(同種のツイートも観測済み)。

一応、ツイッター上でのその時のつぶやきを引用しておく。

もし私への意見があればツイッターでもブログでも遠慮なくどうぞ。

 

そして、可能であればブックマークや拡散もお願いしたい。

(個人的には、名前が知られないまま同種の主張が広まるのが理想だが)

ゆっくり文庫風『シャム双生児の謎』with 指環 投稿あと語り #ニコニコ動画

2021年の9月と12月に、ニコニコ動画に以下の動画を投稿した。

  本記事はクイーン原作『シャム双生児の謎』のネタバレになるため閲覧注意。
(一応、犯人が誰かだけは伏せてある)

 

 

【本編1:なぜ作った?】
5月に投稿した『エジプト十字架』を中断した状態なのだが、6月に江戸川乱歩『指環』を巡る投稿企画があり、それに後発ながら便乗した形である。

タイミングを逃すと今更感が出てくるため、急遽シナリオを作成。当時は2ヶ月程度でできると思っていたが、実際には前編・後編で各3~4か月を要した。
よく考えれば、私はゆっくり文庫系作品を結末まで作ったことがなかった。
結末をまとめる苦労を今回、身をしみて感じた次第である。

現在は『エジプト十字架の謎』完結に向けて制作中・・・といいたいが、新年早々国語系のニュースが飛び込んだため停滞中(私の中ではそちらが優先なので仕方ない)。余力があれば、2022年後半に新訳が発売される『靴に棲む老婆』を製作したいと思っているが、おそらく実現することはないだろう。

 

【本編2:シナリオ作成の経緯】
原作と話の展開が少なからず変わるため、シナリオには相当悩んだ。


まず、いかに江戸川乱歩『指環』の話を”自然に”本編に関わらせるか。

原作の『シャム双生児の謎』はクイーン親子が山火事で足止めを食らい、ジョン・ザビエル氏らが居住する館を訪問するシーンからスタートする。その後関係者の紹介があり、2件の殺人事件が起き、その過程で双子がようやく登場する。タイトルにもある双子の登場時期自体が遅く、さらに双子の存在が事件の本筋に絡むかというと微妙(ダイイングメッセージで双子が疑われるのは原作準拠)。現場のトランプも事件解決の中核というよりは犯人特定の決め手につながる”紛失した指環”の手がかりの目くらまし的な側面が強い。ただしこの構成が見事に江戸川乱歩『指環』に通じる部分があり、だからこそこの『シャム双生児の謎』を選ぶことにした。


ただ、本事件は事件の最初から”館に迫る山火事”というシチュエーションがあるため、ほのぼのと謎解きできる状況にそもそもない。そのため、館の人間に山火事の存在を伝えるクイーン親子視点ではなく、外部から秘匿された存在である双子視点で話を進めることにした。山火事を知る前なら、山火事が迫るシチュエーションでも興味深く『指環』の話に入り込めるし、終盤の地下室での時間つぶしにも応用できる(原作はカロー夫人の出産をめぐる過去話となる)。そして何より、双子視点だと『シャム双生児の謎』のタイトルが原作よりも活きる。

そして、エラリー・クイーンの作品は主人公であるエラリーが自身が関与した事件を小説化したという設定があるため、この設定を活かすなら「なぜエラリーは原作で『指環』の話に触れなかったのか」に言及する必要があると考えた。本動画内では”エラリーが江戸川乱歩エドガー・アラン・ポーを混同して関係者に伝え、事件後に作者の間違いが発覚する”という構成にし、原作での『指環』カットにに一定の説明づけを試みた。かなりギャグめいたオチになったが(笑)。


さらに、本編の動画化は『指環』とは別にいくつかの問題点があった。以下列挙。

  • 登場人物の半数に設定上の仕事がない。原作では館の主がジョンであり、マークやサラ夫人はただの居候。館の仕事は使用人のボーンズと原作未登場のホイアリー夫人にまかせっきり。また館に双子の母マリーがいるため、秘書フォレストもホームズ医師と仲良くなるだけの存在。山火事という状況にもかかわらず何もしない人物が多く緊張感が薄い。
  • クイーン親子の事件捜査が迷走気味。エラリーはカードの暗号にひっかかりサラ夫人や双子に殺人容疑をかけ、夫人は一時錯乱、双子は母マリーとともにエラリーを非難する。リチャード警視も事件中盤で逃走したマークを拳銃で負傷させてしまい、さらに治療中のマークの警備中にクロロホルムをかがされて昏睡、マークの殺害を許してしまう(原作のマークの死因は毒殺)。
  • 事件後半で殺人容疑をかけられた双子が、終盤の事件解明で殺人容疑をかけたエラリーを慕う描写がある。殺人疑惑を晴らしたのもエラリーではあるが、設定上他人との交流が少ない双子があっさりエラリーを慕うのは単純すぎて不自然。
  • 館に地下室があるにもかかわらずそれ以外の手段に依存し、ことごとく失敗する。地下室の存在は館に火が回ってからリチャード警視がサラ夫人を問い詰めて発覚するが、なぜか水や備蓄食料などの運び込みは問題なく完了する。
  • 話の中盤でジョン医師の実験室の描写があり、実験動物の生存が確認できるが、山火事の後どうなったのか不明。
  • 山火事でクイーン親子の車が炎上するが、のちの事件で同じ車が再登場する。
  • 原作の終盤で犯人は燃え盛る館の地上部に逃走(自殺という説が有力)。しかし館はほどなくして鎮火している。

 

そして本動画独自の主な設定は以下。詳細は動画でご確認を。

  • 館の主はマークでジョン医師が居候。サラ夫人は家政婦。
  • 館はジョン医師の研究施設を改築したペンションとなる。
    (原作は現役の研究施設。空き部屋はあるが宿泊施設ではない)
  • 遭難客フランク・スミス、家政婦ホイアリーは未登場。スミスの立場はテリー、ホイアリーの立場はサラ夫人が担う。
  • 『指環』の情景描写はアメリカ準拠。乗客の固有名詞、オレンジやタバコの挿絵、車窓の風景もアメリカ風に。
    (ラシュモア山の彫刻が登場するが、原作発表の1933年時点では存在しない)
  • 地下室の存在は序盤に明かされ、はじめから地下室への避難が計画される。
  • 動物実験の埋葬地が発覚するのは山火事の直前。生存中の実験動物はいない。
  • 事件が昼間に発生、ジョン医師とマークが相次いで銃撃される。
  • トランプの偽装には左利き用はさみが使用される。
  • 利き手の検証はなく、関係者への聞き込みのみ。
  • 現場検証で先に双子、あとでサラ夫人が疑われる。疑いをかける人物もエラリーではなく、エラリーは疑いを晴らす役のみ。
  • 山火事の際に双子の母マリーが館に不在。殺人容疑で双子をかばう役は秘書フォレスト。マリーは山火事の救助を手伝う立場となる。
  • マークのトランプ偽造が発覚するのはマークの死亡後。
  • リチャード警視の指環紛失の経緯も異なる。
  • 山火事で引火するクイーン親子の車は代車。
  • 地下室の入り口はがれきでふさがり、換気口からの脱出を余儀なくされる。
  • その他、終盤の展開も部分的に変更。双子の脱出後の話もあり。


今回の反省点は以下の要素が盛り込めなかったこと。こちらも列挙のみ。

  • マリー・カローが双子の出産から今までをどう思っていたか?
    (原作では、見た目の奇異さで秘密にしていたが双子のことは愛していた)
  • マリー・カローの夫との過程、ザビエル夫妻の結婚までの過程。
  • オーナーとなったマークがなぜトランプをすり替えたか?
    (原作準拠なら事件に乗じてサラ夫人に罪を着せ、遺産の分け前を増やすため)
  • そもそもエラリーはどうやって『指環』を知ったのか?
    (原作には記載なし、構想では終盤にエラリーと接触する人物から教わる)

追記:今回は『ローマ帽子の謎』『エジプト十字架の謎』のような読者への挑戦状がない。『シャム双生児の謎』原作既読者はお察しと思うが、これは原作準拠であり、忘れたわけではない(念のため)。

 

最後に、素材の規約の件。

実は後編作成中にゆっくり素材の規約が変更(正確には規約の明確化)。ゆっくり文庫様から借用した一部素材が使用不可となった。こちらとしては使わせていただく意識を忘れずに使っていきたい。素材の規約についてはなるべく確認するようにしているものの、もし規約違反などあればコメントやTwitterなどでご指摘を。


【追記:ニコニコ動画上での反応など】

ブログ公開時点で忘れていたこと。

2021年8月30日に前編の試作版はニコニコ生放送で放映した。

(無料でニコ生が制限なく使用できる時期だったため)

何気に初のニコ生だったが、文庫関係者を中心にいくつもの反応を頂けた。

そして後編作成後、同じく文庫系動画を投稿するルイス足永様からの感想も。

ルイス足永様のように定期的に反応いただけるのはうれしい。

(同時に、これ以上動画投稿に力点を割けないのがもどかしい)

 

 

【おまけ:キャスティングについて】※マニアックな言及に注意!

今回は『ローマ帽子の謎』から一部キャラを再起用した。

今回のキャスティングの方針は以下:

  • シャム双生児はてゐとうどんげで確定(シルエットがカニに見えるため)
  • ホームズ医師はゆっくり文庫リスペクトでれいむ確定
  • 事件の舞台は高山の館→高山にある守矢神社の関係者

以上の条件の元であれこれ悩み、現在のキャスティングへ。
東方原作的には秘書フォレスト(早苗)と使用人ボーンズ(もこう)の立ち位置が浮いているが、クイーンの原作イメージとの整合性を取るとこうするしかなかった。フォレストの髪飾りを改変したのはただのお遊び。

具体的にはこんな感じ。()は東方作品での登場作品。
・双子の母マリー:えーりん永夜抄
・秘書フォレスト:さなえ(風神録
・双子フランシス:てゐ(永夜抄
・双子ジュリアン:うどんげ永夜抄

・外科医ジョン:かなこ(風神録
・ジョンの妻サラ:すわこ(風神録
・ジョンの弟マーク:きめぇ丸(風神録?)
・ジョンの助手ホームズ:れいむ
・使用人ボーンズ:もこう(永夜抄


ちなみに『指環』ではゆっくり文庫はじめ多くの投稿者に準拠して
・アラン(乗客A):れいむ
・ボブ(乗客B):まりさ
とした。他作との差別化のためころポン式のゆっくりを借用。
指環を盗まれた貴婦人役はころぽん式ようむも検討したが、”本編でれいむ、まりさが別役で登場し、ようむは登場しない”関係上、ころポン式に雰囲気が近い守口式さなえを使用した。車掌は罪袋一択だった。

 

そして本作では原作にいない人物が多数登場する。以下列挙。
()内はクイーン原作での登場作品。
・探偵テリー・リング(ニッポン樫鳥)
・雑誌記者ポーラ・パリス(ハートの4)
・看護師ジェシィ・シャーウッド (クイーン警視自身の事件)
・女流作家カレン・リース (ニッポン樫鳥)


テリー・リングは原作で迷走するエラリーの推理を代わりに請け負う役割。原作の『ニッポン樫鳥の謎』では殺人容疑をかけられた女性を匿い、エラリーに相談する人情味のある人物だが、本動画でそんな彼の人となりをどこまで再現できたかは不安。ちなみに原作『シャム双生児の謎』で盗み食いを働くフランク・スミス(クイーン親子と別の避難客)に立ち位置を近づけており、偽名はその時の名残。ちなみにエラリー・クイーン作品では他の作品でもエラリーと別の探偵がしばしば登場するが、テリーを起用した理由は名字の”リング”が最大の決め手。配役をまりさにした理由はなんとなく。

 

ポーラ・パリスは本編に絡まないが、原作と違い館にいないマリー・カローを館に向かわせる、双子に『指環』の本当の作者を伝える役を担う。本動画制作のために山火事について調べた中で火災積雲という現象(1975年以降に学会で認知)を知り、それを知らせることで結末に深みが出ると考えたため盛り込んだ。

原作の『ハートの4』でもハリウッドに不慣れなエラリーを独自の情報網と分析力で支援する人物であるため、原作の『ハートの4』をご存じの方もそこまで違和感がないのではと思っている。ちなみに『ハートの4』で対人恐怖症(事件後に克服)という設定があるため、同じ設定を持つはたてを起用。


ジェシィ・シャーウッドも本編に絡まず、館を支援するマリー・カローに山火事の状況を伝える役割(原作はモブキャラから手紙などで火事の状況が知らされる)。原作のジェシィは晩年の作『クイーン警視自身の事件』でリチャード警視と事件を解決し、のちにリチャードと結婚する人物。越前訳『シャム双子の秘密』でもジェシィについて解説がされているのでご参照いただきたい。個人的にはもっと本編に絡ませたかったが私の力量では無理だった。ちなみにリチャード役のえいきと対等な関係にしたかったため、えいきが登場する東方花映塚の強キャラゆうかを起用。


カレン・リースはのちに小説化する前にエラリーに『指環』の作者を伝える役割。原作『ニッポン樫鳥の謎』でもエラリーと面識のある日本通の女流作家という設定を持つ。当初の構想ではエラリーが『指環』の存在はカレンから教えられ、江戸川乱歩の語感からエドガー・アラン・ポーの作品と勘違いするという設定だったのだが、本編に絡ませると話が冗長になるため結局カット。ちなみに同作でテリーと共演するが、カレンは『ニッポン樫鳥』の序盤で死亡するため、テリーとやり取りする場面はない。日本人女性らしいイメージを重視してかぐや姫モチーフのかぐやを起用。

後編作成中に素材を変更したのはここだけの秘密(作成当初は文庫式だった)。

政権批判の自由はあれど、雑な推論はやめましょうという話

かなり久々にブログを更新する。

最近の発信はTwitterとTogetterに傾倒してしまったが、今回の話はTwitterで発信するのに向いていないと考え、ブログにて発信する。

 

ここ最近、国語教育の話ばかり発信している私だが、今回はやや政治の話。苦手な方は注意して読んでいただきたい。

 

 

【本文】

ここ数日、論理国語に関する以下の記事が再びSNS上で注目を集めている。1年前の8月、私が国語教育の発信を始めたきっかけの記事でもある。

 

 

その背景は10月末の衆議院選挙にむけて政権批判したい人が、批判材料として新課程国語を批判するというもの。例えばこれ。

両者ともにすさまじい勢いで拡散され、賛否を読んだ。

引用ツイートを見る限り、やはり新課程国語や文学軽視を批判する者が多め。

 

 

前者のツイートは純粋に記事に困惑していた様子だったので情報提供。第3者を巻き込む形にはなったが、割と良好なやり取りができた(多分)。

現在は私のくだらないツイートのフォロワーにもなってくださった。

 

 

他方、後者は実用文しか読まない人間をロボット呼ばわり。1年前の榎本氏といい、彼らは読書ジャンルの違う人間の気持ちへの想像力が不足しているように思う。文学愛好家が時々口にする「豊かな想像力」はどこへ行ったのか?

ともかく拡散力の強さによる第3者への影響を考慮し、ブロック覚悟で反論を試みた(ややきつめに)。

 

 

私のツイートが影響したかどうかはわからないが、この方のツイートはトーンダウン。RTやいいねは多いが、賛同するリプはほとんどなくなった。

反論もできたはずなのに、本人含めて反論はゼロ。

こちらは追撃を続けるだけ。

 

確認した後者の方の最後のツイート。このブログを書いている段階では反論しようかどうか思案中。

 

 

衆院選をきっかけに新課程国語に注目すること自体は悪いと思わない。1年遅れではあることには注意しつつも、納得するまで議論すればいい。

かくいう私自身が1年前からの発信だし、何より国語と無関係な部外者だ。

 

ただし、批判対象について下調べをするのは最低限のマナーだろう。事実誤認のまま煽情的な発信をすることほど見苦しいことはない。良くて徒労に終わり、最悪の場合は自分の足元をすくう形で帰ってくる。

表現の自由には、その程度の責任は伴うのだ(私の解釈)。

 

 

 

最後に、最近(文学的表現に苦悶しながら)読み進めているエラリー・クイーンの一節で閉めよう。

 

「真実とは不愉快なものだ。だが少なくともそれは真実”なのだ”。真実を知ればそれは知識となる。知識を持てば、君たちは永続的な決断をすることができる。」

(青田勝訳『災厄の町』p308より)

 

 

どうかこれ以降、私から政治的な発信をしなくて済みますように。

論理と文学の分断を招いたのは誰か? #国語教育 #論理国語

【はじめに】
今回も新課程国語への言説に対し批判を申し上げる。
今回は高校や教師個人に対し厳しい意見になることをはじめに申し上げる。
とはいえ、私は部外者ではあるが先生方の日ごろの活動には敬意を持っているつもりであり、特に近年、#教師のバトン で言及されるほどの多忙感があることは理解しているつもりである。

ただし、本記事の内容はそれとは別で言及されてしかるべきと考えるものであり、何より、不確かな情報源で現場が振り回されていることを心苦しく思うゆえの内容である。(いつも以上に)書いていることの齟齬や不備があればご指摘いただきたい。
コメントかSNSなどで発信いただけるのが一番有りがたいが。


【本題】

論理と文学の二分問題(新課程高校国語で論理と文学を二分するかのような教育課程の問題)は以前にもブログで取り上げたが、今なおそれを問題視する声は大きい。多くの記事は、以下の観点で共通しているというのが私の認識である。
・文学にも論理があり、文学と論理を分断するかのような新課程には問題がある。
・大学入試の都合で「論理国語」を選択する学校が多く、「文学国語」の選択は少ない。
 また他の科目の兼ね合いを考えれば両科目の同時履修は不可能。
・高校国語において、名作との出会いの場として文学の授業は重要(不可欠?)である。


また、論者によって意見がまちまちなのが、論理国語の内容についての反対意見。
私なりに集約すると以下の通り。
・論理国語の内容は契約書の読解。ほとんどの生徒は興味を持たない。
 (SNS上では契約書読解に関心を持つ者を変人扱いする意見もあり)
・論理国語の内容(特に論文読解・執筆)は大学で扱うほうが望ましい。
・論理国語の内容は現在の国語教師には指導できない。
 (中には社会科・情報科など他教科の教師に任せる意見もあり)

 

以下、本記事のために私が拝読した記事をリストアップする。
まずは批判的な立場(圧倒的多数)から。

 

「文学国語」の可能性① ―「学習指導要領」の読書感想文|神楽坂いづみ|note

暮らしと学問 23 論理と文学は分けることができるのか?|氏家 法雄 ujike.norio|note

【教育】2022年からの国語はトリセツが教材に…。私なら養老孟司や河合隼雄のエッセイを教材に使いたい|ハッピー書房(本と人生を考える)|note

新しい高校の選択科目「論理国語」という語の初出は文科省か、出口汪氏の著作か?|空の芽|note

上野さん、これは間違っています。|kensuke|note

論理を下支えするもの|こにし|国語科|note

「文学的」とはどういうことか?―文学と論理のはざまで|ちいさなへやの編集者|note

高校国語の科目再編 論理と文学、分断に危うさ: 日本経済新聞

契約書か漱石の『こころ』か、どちらかしか学べない? 高校国語の新学習指導要領に困惑の声 (1/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

東大文学部の白熱シンポジウムを書籍化、日本の教育改革にメス “ことばはツール”なのか? (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校の国語から文学作品が消える!? 2022年の新学習指導要領に東大卒ママが物申す (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

内田樹「子どもたちには『論理国語』よりもコナン・ドイルを」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校国語で小説軽視?作家ら懸念 22年度に科目再編、「文学」と「論理」区別:朝日新聞デジタル

<特集「文学なき国語教育」が危うい!>現役高校教師座談会 「文学」で「論理」は十分学べる | 特集 - 本の話


国語の大論争 「論理国語」と大学入試 (中央公論)

 

そして、論理国語を是認する立場の発信はこちら。

「現代文」が「論理国語」「文学国語」に!文学離れは本当に起きるのか【出口式「論理エンジン」の考え方】 - バレッドプレス(VALED PRESS)

【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(60)論理国語は素材次第だ - 産経ニュース

 

 

ちなみに私は、新課程国語には肯定的な立場である(改善の余地は認めるが)。
その主な理由は以下。詳細はここでは述べない。
PISA等の国際的な学力調査で高校生の読解力に課題がある。
・国内の産業界からもより高度な国語力を求める声がある。
・現行の国語教育は文学教材の読解・心情理解に著しく偏っていた。
 (少なくとも、そのイメージを払拭どころか強化する発信が今なお多い)
・高校生の教材への興味関心の幅は様々。文学の過剰な押し付けは害悪である。

 

 

そして、論理と文学の両立(「論理国語」と「文学国語」(そして古典)の同時履修)は、少なくとも文系については十分可能であると言及した。
あえて過剰に書くが、”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである。
詳細は私の過去ブログをご覧になられたい。

 

また、少なくとも学習指導要領上、「論理国語」「文学国語」の減単位(4単位→3単位)も可能である。
標準単位に過剰にこだわる必要はない。(文科省でもそれを容認する声があると聞く)
重要なのは学習内容・スキル習得であり、時間はそのための手段でしかない。
時間数が足らなくとも、まったくやらないよりははるかにましだと私は考える。

 

 

 

さて、以上のことを踏まえ、本題に入る。

論理と文学の二分を招いたのは誰なのか?

 

 

 

 

 

 

 

文部科学省か?あるいはその関係者か?


半分正しいが、半分間違っている。
それが本記事の私の主張である。

 

 

 

 

確かに、新課程の国語を作成した責任は文部科学省にある。それは間違いない。
しかし、公開された新課程をもとに、自身の裁量で「文学国語」の履修を断念したのは、まぎれもなく個々の高校側である。

 


昨年も言及したし、何度でもいう。
論理国語と文学国語の両立は”可能”である、と。
”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである、と。

 

この手の主張が正しいかどうか検証もせず、同時履修が不可能だと思い込み、大学入試に不利という理由で「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。
(当然であるが、文科省サイドはそのような発言をしていない。)


また、仮に両立不可能だったとしても、
「文学国語」単独で「論理国語」の目指す学習事項の履修も可能なはず。
”文学でも論理が十分学べる”という国語教育関係者も少なからずいるのだ。
彼らの実践をつぶさに学べばいい。
例えばこれ。

 


それにもかかわらず、”文学でも論理が十分学べる”という発言を信用せず(あるいは知らず)、”大学入試に文学国語は不利”という他校の動向をうのみにして「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。

 

付け加えておくと、私自身は「論理と文学の二分」を容認する立場であるが、その理由は「文学に論理がない」と主張するためではない。高校国語が目指す「論理的な読み書き」実現のために、いわゆる文学教材とその他(評論文から契約書まで)では論理の性質が違いすぎると考えるからだ。

論理と文学の二分に違和感を唱える方々で、その両者の論理の違いを言及しているのを私はまだ見たことがない。
穿った見方をすれば、それくらい彼らは文学以外の文章、あるいは「論理」そのものに興味がないのかもしれない。

 

もし「そうではない。文学以外にも一定の関心を持っています(授業をしています)」というのであれば、ぜひとも情報(情報源)を発信するなり、論文・書籍などを紹介するなりしてほしい。
少なくとも私は、見つけ次第拝読させていただくし、しかるべき対価を払う用意もある。

 


僭越ながら、このブログ記事が国語教育の改善に寄与すれば幸いである。 

次回こそは数学教育の話をしたい。