政権批判の自由はあれど、雑な推論はやめましょうという話

かなり久々にブログを更新する。

最近の発信はTwitterとTogetterに傾倒してしまったが、今回の話はTwitterで発信するのに向いていないと考え、ブログにて発信する。

 

ここ最近、国語教育の話ばかり発信している私だが、今回はやや政治の話。苦手な方は注意して読んでいただきたい。

 

 

【本文】

ここ数日、論理国語に関する以下の記事が再びSNS上で注目を集めている。1年前の8月、私が国語教育の発信を始めたきっかけの記事でもある。

 

 

その背景は10月末の衆議院選挙にむけて政権批判したい人が、批判材料として新課程国語を批判するというもの。例えばこれ。

両者ともにすさまじい勢いで拡散され、賛否を読んだ。

引用ツイートを見る限り、やはり新課程国語や文学軽視を批判する者が多め。

 

 

前者のツイートは純粋に記事に困惑していた様子だったので情報提供。第3者を巻き込む形にはなったが、割と良好なやり取りができた(多分)。

現在は私のくだらないツイートのフォロワーにもなってくださった。

 

 

他方、後者は実用文しか読まない人間をロボット呼ばわり。1年前の榎本氏といい、彼らは読書ジャンルの違う人間の気持ちへの想像力が不足しているように思う。文学愛好家が時々口にする「豊かな想像力」はどこへ行ったのか?

ともかく拡散力の強さによる第3者への影響を考慮し、ブロック覚悟で反論を試みた(ややきつめに)。

 

 

私のツイートが影響したかどうかはわからないが、この方のツイートはトーンダウン。RTやいいねは多いが、賛同するリプはほとんどなくなった。

反論もできたはずなのに、本人含めて反論はゼロ。

こちらは追撃を続けるだけ。

 

確認した後者の方の最後のツイート。このブログを書いている段階では反論しようかどうか思案中。

 

 

衆院選をきっかけに新課程国語に注目すること自体は悪いと思わない。1年遅れではあることには注意しつつも、納得するまで議論すればいい。

かくいう私自身が1年前からの発信だし、何より国語と無関係な部外者だ。

 

ただし、批判対象について下調べをするのは最低限のマナーだろう。事実誤認のまま煽情的な発信をすることほど見苦しいことはない。良くて徒労に終わり、最悪の場合は自分の足元をすくう形で帰ってくる。

表現の自由には、その程度の責任は伴うのだ(私の解釈)。

 

 

 

最後に、最近(文学的表現に苦悶しながら)読み進めているエラリー・クイーンの一節で閉めよう。

 

「真実とは不愉快なものだ。だが少なくともそれは真実”なのだ”。真実を知ればそれは知識となる。知識を持てば、君たちは永続的な決断をすることができる。」

(青田勝訳『災厄の町』p308より)

 

 

どうかこれ以降、私から政治的な発信をしなくて済みますように。

論理と文学の分断を招いたのは誰か? #国語教育 #論理国語

【はじめに】
今回も新課程国語への言説に対し批判を申し上げる。
今回は高校や教師個人に対し厳しい意見になることをはじめに申し上げる。
とはいえ、私は部外者ではあるが先生方の日ごろの活動には敬意を持っているつもりであり、特に近年、#教師のバトン で言及されるほどの多忙感があることは理解しているつもりである。

ただし、本記事の内容はそれとは別で言及されてしかるべきと考えるものであり、何より、不確かな情報源で現場が振り回されていることを心苦しく思うゆえの内容である。(いつも以上に)書いていることの齟齬や不備があればご指摘いただきたい。
コメントかSNSなどで発信いただけるのが一番有りがたいが。


【本題】

論理と文学の二分問題(新課程高校国語で論理と文学を二分するかのような教育課程の問題)は以前にもブログで取り上げたが、今なおそれを問題視する声は大きい。多くの記事は、以下の観点で共通しているというのが私の認識である。
・文学にも論理があり、文学と論理を分断するかのような新課程には問題がある。
・大学入試の都合で「論理国語」を選択する学校が多く、「文学国語」の選択は少ない。
 また他の科目の兼ね合いを考えれば両科目の同時履修は不可能。
・高校国語において、名作との出会いの場として文学の授業は重要(不可欠?)である。


また、論者によって意見がまちまちなのが、論理国語の内容についての反対意見。
私なりに集約すると以下の通り。
・論理国語の内容は契約書の読解。ほとんどの生徒は興味を持たない。
 (SNS上では契約書読解に関心を持つ者を変人扱いする意見もあり)
・論理国語の内容(特に論文読解・執筆)は大学で扱うほうが望ましい。
・論理国語の内容は現在の国語教師には指導できない。
 (中には社会科・情報科など他教科の教師に任せる意見もあり)

 

以下、本記事のために私が拝読した記事をリストアップする。
まずは批判的な立場(圧倒的多数)から。

 

「文学国語」の可能性① ―「学習指導要領」の読書感想文|神楽坂いづみ|note

暮らしと学問 23 論理と文学は分けることができるのか?|氏家 法雄 ujike.norio|note

【教育】2022年からの国語はトリセツが教材に…。私なら養老孟司や河合隼雄のエッセイを教材に使いたい|ハッピー書房(本と人生を考える)|note

新しい高校の選択科目「論理国語」という語の初出は文科省か、出口汪氏の著作か?|空の芽|note

上野さん、これは間違っています。|kensuke|note

論理を下支えするもの|こにし|国語科|note

「文学的」とはどういうことか?―文学と論理のはざまで|ちいさなへやの編集者|note

高校国語の科目再編 論理と文学、分断に危うさ: 日本経済新聞

契約書か漱石の『こころ』か、どちらかしか学べない? 高校国語の新学習指導要領に困惑の声 (1/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

東大文学部の白熱シンポジウムを書籍化、日本の教育改革にメス “ことばはツール”なのか? (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校の国語から文学作品が消える!? 2022年の新学習指導要領に東大卒ママが物申す (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

内田樹「子どもたちには『論理国語』よりもコナン・ドイルを」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校国語で小説軽視?作家ら懸念 22年度に科目再編、「文学」と「論理」区別:朝日新聞デジタル

<特集「文学なき国語教育」が危うい!>現役高校教師座談会 「文学」で「論理」は十分学べる | 特集 - 本の話


国語の大論争 「論理国語」と大学入試 (中央公論)

 

そして、論理国語を是認する立場の発信はこちら。

「現代文」が「論理国語」「文学国語」に!文学離れは本当に起きるのか【出口式「論理エンジン」の考え方】 - バレッドプレス(VALED PRESS)

【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(60)論理国語は素材次第だ - 産経ニュース

 

 

ちなみに私は、新課程国語には肯定的な立場である(改善の余地は認めるが)。
その主な理由は以下。詳細はここでは述べない。
PISA等の国際的な学力調査で高校生の読解力に課題がある。
・国内の産業界からもより高度な国語力を求める声がある。
・現行の国語教育は文学教材の読解・心情理解に著しく偏っていた。
 (少なくとも、そのイメージを払拭どころか強化する発信が今なお多い)
・高校生の教材への興味関心の幅は様々。文学の過剰な押し付けは害悪である。

 

 

そして、論理と文学の両立(「論理国語」と「文学国語」(そして古典)の同時履修)は、少なくとも文系については十分可能であると言及した。
あえて過剰に書くが、”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである。
詳細は私の過去ブログをご覧になられたい。

 

また、少なくとも学習指導要領上、「論理国語」「文学国語」の減単位(4単位→3単位)も可能である。
標準単位に過剰にこだわる必要はない。(文科省でもそれを容認する声があると聞く)
重要なのは学習内容・スキル習得であり、時間はそのための手段でしかない。
時間数が足らなくとも、まったくやらないよりははるかにましだと私は考える。

 

 

 

さて、以上のことを踏まえ、本題に入る。

論理と文学の二分を招いたのは誰なのか?

 

 

 

 

 

 

 

文部科学省か?あるいはその関係者か?


半分正しいが、半分間違っている。
それが本記事の私の主張である。

 

 

 

 

確かに、新課程の国語を作成した責任は文部科学省にある。それは間違いない。
しかし、公開された新課程をもとに、自身の裁量で「文学国語」の履修を断念したのは、まぎれもなく個々の高校側である。

 


昨年も言及したし、何度でもいう。
論理国語と文学国語の両立は”可能”である、と。
”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである、と。

 

この手の主張が正しいかどうか検証もせず、同時履修が不可能だと思い込み、大学入試に不利という理由で「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。
(当然であるが、文科省サイドはそのような発言をしていない。)


また、仮に両立不可能だったとしても、
「文学国語」単独で「論理国語」の目指す学習事項の履修も可能なはず。
”文学でも論理が十分学べる”という国語教育関係者も少なからずいるのだ。
彼らの実践をつぶさに学べばいい。
例えばこれ。

 


それにもかかわらず、”文学でも論理が十分学べる”という発言を信用せず(あるいは知らず)、”大学入試に文学国語は不利”という他校の動向をうのみにして「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。

 

付け加えておくと、私自身は「論理と文学の二分」を容認する立場であるが、その理由は「文学に論理がない」と主張するためではない。高校国語が目指す「論理的な読み書き」実現のために、いわゆる文学教材とその他(評論文から契約書まで)では論理の性質が違いすぎると考えるからだ。

論理と文学の二分に違和感を唱える方々で、その両者の論理の違いを言及しているのを私はまだ見たことがない。
穿った見方をすれば、それくらい彼らは文学以外の文章、あるいは「論理」そのものに興味がないのかもしれない。

 

もし「そうではない。文学以外にも一定の関心を持っています(授業をしています)」というのであれば、ぜひとも情報(情報源)を発信するなり、論文・書籍などを紹介するなりしてほしい。
少なくとも私は、見つけ次第拝読させていただくし、しかるべき対価を払う用意もある。

 


僭越ながら、このブログ記事が国語教育の改善に寄与すれば幸いである。 

次回こそは数学教育の話をしたい。

ゆっくり文庫風『エジプト十字架の謎』Part1投稿あと語り #ニコニコ動画

先日、今年1月の動画『ローマ帽子の謎』の続編を投稿した。

 

www.nicovideo.jp

 

前回は年末年始の休みを使い3日程度で完成させたが、今回は難航した。

完結を見越してシナリオを作ったから?改変が多いから?それとも…。

いずれにせよ、Part1投稿までに約4か月を要した。

昔の動画『ゆっくり科学者列伝』(計7作+α)では最長でも2ヶ月。

そのことを想うと、長編作品ミステリーを動画化する難しさを痛感させられる。

同種の動画を作成されている方、そもそも原作を作られている方々に頭が下がる。

 

ただ今後も「文学にドライ」的な発信は続けるだろう。

コンテンツ作成に全力投球しているからと言って、他分野に対する敬意を欠く発言が許されていいとは思わない。かつてWikipedia執筆をしたり、科学系偉人の解説動画を作成した経験から心底そう思う。

 

 

【本編1:なぜ続編を作った?】

最大の理由は、前回の『ローマ帽子の謎』の反響が意外な形であったため、そのお礼としての意味が大きい。『ローマ帽子の謎』は問題編のみの「うっかり文庫」であり、だからこその反響という面がある。犯人が気になる的なコメントも多かったが、かといって解決編を作るのは、「うっかり文庫」としての魅力を損ねることになると考えた。

ならば、続編を作り、そちらで完結編までを作成しよう、そう考えたのだ。

そして、「うっかり文庫」として『ローマ帽子の謎』を作成した時に漠然と思ったのが、”うっかり文庫では大幅な改変ができない”ということ。

「うっかり文庫」は一部のみの制作が許容される代わり、”続きは原作を読んでね”で閉めることを余儀なくされる。大幅に変更し、作品内で完結させないまま”続きは原作で”だと、もはや原作との接点のない別物となる。それは視聴者にとってはもやもやが大きすぎるし、何より原作への敬意を欠く行為だと考えるのだ。

だから今回は、負担感が大きいものの全編を作ることにした。なぜ『エジプト十字架の謎』にしたかは後述する。

 

【本編2:『エジプト十字架の謎』の選択理由】

理由は3つ。

・投稿者にとって、エラリー・クイーンの作品で唯一幼少期に読んだ作品

エラリー・クイーンの作品内でも世間一般的な評価が高い作品の1つ

・動画化に当たり内容改変を余儀なくされる要素が多い

上2つのついては詳細は語らない。3つ目のみ補足する。

原作本のあらすじを読むだけでも、本作は”忠実な再現”には向いていないことがわかる。というのも、原作での殺害方法は”首を切断し、T字型の磔にする”だからだ。しかもこの殺害方法自体が結末に直結する。単純にグロテスクであるし、頭部しかないゆっくりで再現することも原理的に困難である。

ちなみに、私の動画ではTNTで爆殺され、顔の判別が不可になる”という形をとった。爆発物に”T”で始まるものを使用することで、”T”の見立ても成立する(やや専門的になるが)。宗教がらみのこの事件で爆弾を使うという設定に迷いはあったが、それを言うなら殺人事件を取り扱うこと自体が議論されてしかるべきだと思う。舞台となる1930年代アメリカについても調べ、少なくともこの頃のヨーロッパではTNTが使用されていることを確認済みである。

なお、これにともない、一部人物にTNT使用可能となるよう設定を変更した。詳細はキャスティングにも影響するためここでは省略。

完結編作成時に致命的な齟齬が出てこないことを祈る。

 

その他、Part1時点での主な変更点は以下。太字は後日追記項目(5/8)。

・物語開始はヤードレー教授との再会から。それ以前の物語は回想で。

・秘書ニッキー・ポーターが同行。ジューナは運転手フォックスの立場に。

・登場人物全員にフルネームあり。

リンカーンの妹へスター、隣人のリン夫妻、その他モブが未登場。

・原作でモブ枠の執事ストーリングスが容疑者の1人に昇格。

・アロヨ関係者で登場するのはクリング、ピート老人、ルーデン巡査のみ。

・クリングに元教師という設定が追加(実はTNT関係)。

 ・テンプル医師が検死役を兼ねたため死体発見時に出会う。大戦経験は原作通り。

・ブラッドの死体発見時刻が翌朝から当日の深夜に変更。発見者はヤードレー教授とジューナ・フォックス(原作はフォックスとリンカーン)。殺害にTNTが使われる設定上、爆音はごまかせないゆえの変更。

・ブラッド氏殺害時のアリバイ検証はエラリー訪問前に一通り終了する。内容も原作より簡略化。実はこの辺のシナリオ調整に一番苦労した。

・アイシャム地方検事が太陽教について無知(太陽教の説明を引き出すため変更)。

・太陽教についての全裸主義設定をカット。

・クロサックの身体的特徴を左足不自由→左耳ケガ(耳あて)に変更。ちなみに耳あては1930年代アメリカでは流通していない。

・メガラ到着が2日目に変更(原作は8日目)。

・メガラの一人称が「俺」。原作日本語訳は「私」か「僕」。原作で一人称「俺」があまりに少なくバランスを取る意味と、自前のクルーザーで旅行する男にしては紳士的すぎる原作設定への個人的違和感から。

・チェッカーの推理がPart1で完結。容疑者となったジューナ救済に使用。

 (原作同様に容疑者の絞り込み自体は行われる)

・ヤードレー教授別荘の家政婦として『ニッポン樫鳥の謎』のキヌメ、ジューナの保護者的立場として『フォックス家の殺人』のデイビー・フォックスが登場。

 

 

【本編3:今後について】

Part2以降の作成に邁進する。本業が忙しくなったためPart2は8月以降になる。

その関係上、Part1の続きを「おまけ」という形で流し、おまけ込みならPart1時点で犯人特定可能、という構成にしてある。本動画制作の趣旨と本業を両立しようと苦悩した結果なのでご容赦いただきたい。

ちなみに、Part2の書き出しはすでにTwitterで公開した。よろしければ。

 

 

【おまけ:キャスティングなど】※マニアックな言及に注意!

本作のキャスティングは以下。

 

今回は話の展開上のメイン人物に『東方輝針城』のキャラを充てた。具体的には以下。

わかさぎ姫・・・スティーブン・メガラ

赤蛮奇・・・アンドリュー・ヴァン

今泉影狼・・・ストーリングス

九十九弁々・・・マーガレット・ブラッド

九十九八橋・・・ヘレーネ・ブラッド

鬼人正邪・・・トマス・ブラッド

少名針妙丸・・・ジューナ・フォックス

堀川雷鼓・・・ジョナ・リンカーン

実は『ローマ帽子の謎』作成時点で、ジューナ役には針妙丸を充てるつもりでいた。原作でのジューナの立ち位置は留守番、原作のフォックスはいてもいなくてもよい(但し出番は多い)立ち位置のため、本作で両方カットしようとも考えた。

が、シナリオ作成中にジューナをフォックスのポジションに充てることを思いつき、現在の形となった。原作でフォックス(=ジューナ・フォックス)の殺人容疑は本編中盤まで引っ張られるが、本作ではチェッカーの推理を流用してPart1であっさり解決させることにした。

かくして『東方輝針城』総出演が実現。あとのキャラはそんなに迷わず起用。

なお、東方に詳しい方ならば、フォックスという名称で八雲藍を連想することを見越し、『フォックス家の殺人』のデイビー・フォックス役として登場させた。ジューナがジューナ・フォックスとなったことに違和感を抱く視聴者がどれだけいるかわからないが。

 

その他の登場人物の起用イメージはこんな感じ。

警察関係者(アイシャム、ヴォーン、テンプル)・・・三月精

太陽教関係者(ハラーフト、ローメン、クロサック)・・・神霊廟

アロヨ関係者(クリング、ピート老人、ルーデル巡査)・・・命蓮寺

ただし、クリング役の紅美鈴は『東方紅魔郷』、ルーデル巡査役のきょうこ(幽谷響子)は『東方神霊廟』のキャラ。クリング役にはのちの話の展開上”赤毛の東方キャラ”が望ましかったが、命蓮寺関係に赤い髪のキャラはいなかった。(5/8追記)

なお、この起用イメージは、ハラーフト役の物部布都、ピート老人役の雲居一輪が個人的なはまり役でこうなった。今思うとクロサックも割とはまり役。ちなみにハラーフトの名は翻訳によってはハラークト、ホルアクティと呼ばれることもある。

 

ちなみに、警察関係者に三月精を起用した理由はこの動画の影響。

『エジプト十字架の謎』と別の形で”T”も登場する。

www.nicovideo.jp

 

最後に、ヤードレー教授役は八雲紫一択だった。私の中でヤードレー教授は”正義のモリアーティ”で、本家ゆっくり文庫で八雲紫を充てているので。

www.nicovideo.jp

ただ、東方原作でエラリー・クイーン役の比那名居天子と仲が悪いのはご愛敬。

話題の多くは、案外昔から誰かが口にしている #アベプラ #数学教育 #教師のバトン

ブログ投稿が1ヶ月以上空いた。

 

この間、前回の記事で挙げたアベプラ側がお金の教育、数学教育について特集を組み、番組を公開していた。私自身はこの問題について考えをまとめるに至っていないが、番組の鮮度が落ちないうちに簡単にまとめる。

これまでと違い、今回は国語についての話題はなし。

また、ブログの終盤で「#教師のバトン」の話題にも多少触れるのでご注意。

 

【お金教育】ひろゆき「お金が無い人のための教育をすべき」森永卓郎フリーランスの王 株本祐己と熱論!高校で資産形成の授業は必要?お金の勉強って何をすべき?【学校】|#アベプラ

www.youtube.com

 

【天才数学者】人生に必要?算数で十分?文系でもマスト?「理論的に考える癖をつけるため」天才数学者×ひろゆきが議論!【メトロノーム】|#アベプラ

www.youtube.com

 

できれば、これらのノーカット版の閲覧をお勧めしたい。1年程度たつと公式ページからは消滅するようなので。

お金教育 https://abe.ma/3fkukDQ

数学教育 https://abe.ma/3ebThiI

 

 

さて本題。

これらの番組で私が感じたことを僭越ながら述べさせていただく。

 

 

1.お金教育について

お金に関しては、経済・財政にも詳しいゲスト(森永卓郎氏・株本祐己氏)を交えて話が展開されていた。私自身が経済問題に詳しくないので彼らの話の真偽をつかみかねるが、この特集での結論は「原理的に、役に立つお金教育は不可能」

前回の古文漢文不要論の延長で見ていた側としては、「だったら、お金教育と比較して古文漢文不要論を出すこと自体が結局ナンセンスなのでは?」と率直に思った。

 

以下詳細。

前回の記事で取り上げた古文漢文不要論の番組内での問題意識は「生活に困窮する者には、古文漢文のような実用性の見出しづらいものより、役所の行き方のような社会の生き方に直結するものを教えるべき」というものだったはずだ。そして、今回のお金教育は後者の「社会の生き方に直結するもの」の例として挙げられている(番組の冒頭もそうした導入になっている)。

しかしながら、少なくともお金の教育については「当事者の利害が絡むため、本当に役立つことを学校が教えることは原理的に困難」という趣旨の発言があった(直接の発言者は番組プロデューサー若新雄純氏)。その結論を番組側が受け入れるなら、「古文漢文の教育に実用性があるかどうかはともかく、原理的に教育困難なもののために時間を割くのは誤りである」と結論づけるほかないだろう。

番組側がそこまで考えていない、と言われればそれまでだが。

 

もっとも、この番組の結論「原理的に、役立つお金教育は不可能」自体に私は疑問を持っている。ゲストが論拠として挙げた当事者の利害関係については私もおぼろげに同意するが、抗う術は本当にないのだろうか?

そもそも、今回の議論はゲストの立ち位置からして経済サイドから見た議論であり、教育サイドでの意見がほとんど取り上げられていない印象を受ける。つまり、学校教育や現在の社会制度という制約(ゲストの言う利害関係を含む)の中、どこまでの指導が可能なのかは別途議論されてしかるべきだと考えるのだ。少なくとも、ゲストの方々が満足する水準か否かは別として、現状の中学校・高校の社会科や家庭科などでこの手の指導はなされているはずなので。

・・・以下のTweetのような致命的な問題はあるにせよ。

 

お金の教育に関しては私も知識不足だが、今後も勉強していきたい。

 

 

 

2.数学教育について

こちらの番組上の問題意識は2つ。

1つは、すでに古文漢文不要論を特集したので、ならば数学不要論もやってみよう、というもの。もう1つは、早稲田大学政治経済学部の入試科目に数学IAが追加され話題を呼んだこと。こちらではゲストに千葉逸人氏を招いて議論が交わされた。

こちらについては冒頭からひろゆき氏が「政治経済学部での学びに数学は必要。しかし、それ以外の文系分野で有用な専門知識のある人にとっては不要」と立論しているため、私としては出鼻を挫かれたまま番組が終了したな、というのが率直な感想。SNS上の感想を見る限りでも、数学不要論そのものより数学者の浮世離れ観が印象に残ったとする発信が多い印象を受けた。

こちらについては、その後の議論の中で出てきた論点が「論理的思考が重要」というありふれたものしかなく、議論というよりは雑談という印象である。論理的思考を学ぶのはどこまで有効か、論理的思考を学ぶのに数学は本当に適しているのか、という議論の余地はあったと思うし、私自身もその点については疑問に思い続けてきたからである。それこそ、昨年から取り上げている「論理国語」ではだめなのか、と。

 

 

同じAbemaの番組なら、2年前に話題になった橋下氏の番組のほうが(数学の話題としては一瞬だったが)反響があった。

times.abema.tv

こちらの番組はすでに閲覧不可になっているが、「社会の多様なニーズにこたえるために学習の選択肢を増やせ。少なくとも自分にとって、化学式や三角関数は必要のないものだった」という趣旨の発言が橋下氏からなされていたことを記憶している。

個人的には、「そもそも化学式や三角関数は必修じゃないです」という突っ込みを持ちつつも、「選択肢」という意味で当時の橋下氏の主張に賛同する立場をとる。ただし、当時のSNS上では三角関数不要論そのものにフォーカスが当たって橋下氏が批判を受けるという残念な展開を見せた。その後、橋下氏からの釈明がなされたが、橋下氏を批判する側がその釈明に耳を傾ける様子を見せないまま議論は収束したのを記憶している。

togetter.com

president.jp

なお、上2つのリンクでは理数系科目の話題だけでなく、教員免許の話題も少なからず取り上げられている。最近話題を呼んでいる「#教師のバトン」の話題が気になっている方は一度ご覧になることを勧める。

 

そして「#教師のバトン」に関する特集も別途アベプラでは取り上げられていた。長くなるのでこれ自体の感想は省略。関心ある方はご視聴を。

#教師のバトン】現役教師「閉鎖的な組織」先生たちがブラック労働をTwitterに暴露?前川喜平元文科事務次官と考える教師の働き方改革【EXIT】|#アベプラ

www.youtube.com

ノーカット版 https://abe.ma/3a2bGxc

 

 

3.今回のまとめ

以上、今回の感想を簡単にまとめると、

お金教育→「原理的に不可」としたけれどそれでいいの?(素人の感想)

数学教育→冒頭の「政経では必要」で完結。議論の余地は残るが雑談に終始。

という感じ。もっと掘り下げてほしいというのが視聴者としての私の感想だが、ブログや動画の配信を始めてから、そんな掘り下げたコンテンツ制作の苦労を痛感しているのでもどかしいところ。

 

そして、今回のブログ記事をまとめながら思ったこと。

SNS上で話題になっていることの多くは、案外昔から誰かが口にしていることなのだな、ということだ。裏を返せば、それだけこの手の話題を継続的に追っている人間が少ないということでもあるだろう。

今後も時間の許す限り、情報収集を継続していきたい。

古典必要・不要論を前進させるための論点整理 #古典 #古文 #国語教育

前回取り上げたひろゆき氏の記事(?)の内容が、アベプラという番組で動画化された。

内容としては良くも悪くも2年前のこてほんシンポと同水準であり、この議論が2年前より多くの方の目に留まった点をよしとする一方、議論の進展のなさには不満がある。

とはいえ関心のある方には必読である(できればAbemaTVの公式版も)。

【古文漢文】「要らなくないすか?」ひろゆきがぶち上げた"オワコン論争"物議に…なぜ必修課目?カリスマ古文講師&ブルガリア出身の研究者と激論【受験】【義務教育】

www.youtube.com

ノーカット版▷http://abe.ma/3bDUONa

 

この番組についてもすでにいくつかの記事がある(ただし、なぜかはてなブックマークではほぼ検索されない)ため、この動画の感想そのものをここで述べるつもりはない。私の問題意識は、自身の立場(多種多様な学問を学びたい)からこの問題を進展させるための提言のつもりである。まだまだ粗削りであるが、時間をかけすぎて時期を逃したくないため思いつく限りをまとめることにした。

 

 

なぜ古典脱必修化論は古典不要論にすり替わるのか

 まず、古典推進派が問題視する見解は、厳密には以下の2つに分類できる。
 ・古典脱必修化論:学校教育(小中高)の古典科目を必修から選択に変更せよ
 ・古典不要論:学校教育(小中高)から古典科目を必修・選択から除外せよ

 ちなみに、同じノリで古典必要論を定義するなら、以下の通り。
 ・古典必要論:学校教育(小中高)の古典科目(特に必修)を維持・推進せよ

  前者は本質的には"選択科目では残すべき"の立場なので、後者とは区別される立場にある。とはいえ、高校物理のように選択科目となった時期から履修率が大幅に減った事例もある。古典脱必修化の立場から古典推進派に異議申し立てをする時点で、推進派がそうした危機感を持っていることは意識しておいたほうがいいだろう。
 なお、古典推進派も、そうでない立場も、本来古典が必修か否かは、究極的には教科・科目間の時間の奪い合いであることを自覚しておいたほうがいい。そして、そのための折り合いをつけるためには、「古典」という科目・分野で何をどこまで教えるかについて踏み込んだ議論が必要となる。このブログ記事が部分的にでもそのための材料となれば幸いである。


・古典推進派は推進する古典の存在意義を示せているか?

 古典推進派の主張は、とかく多岐にわたる。アベプラの動画でも、2年前のシンポジウムでも、論点がころころ変わり収束する目途すらたたずに終了した。抜け・漏れはあるかもしれないが、私なりに論点を整理すると以下の3つに大別されるだろう。
 観点1:古典で日本の文化・伝統・歴史は有効に教えられるのか
 観点2:古典で現代の社会問題を解決する知見は得られるのか
 観点3:古典で現代社会を生き抜く資質・能力は育めるのか

 この3つの観点から、必修に足るだけのYesが出れば古典必修は維持できるだろう。
 しかし、現時点での私の見解は”すべてNo”である。
 その最大の理由は、日本の国語教育には次の<前提>があり、その前提を推進派があいまいにしたまま言及しているためだと考える。

前提1:

 現行の古典授業の実態は、日本の古典文法で書かれた文章(原典)の読解指導が中心。よって、諸外国の古典や明治時代以降の古典は対象外。(漢文は例外)
前提2:

 国公立大学の多くは入試問題に少なくない割合で「古典」を出題する。少なくともセンター試験(新テスト)に占める古典の割合は国語の50%。
 以下、観点1~3について言及する。

 

・観点1(文化・伝統・歴史)について
 古典教材から学ぶのは基本的にはケーススタディ(具体的・詳細だが一般性に欠ける)である。多くは執筆者の世界観から当時の時代をにおわせるものであり、中には「平家物語」のような時代をさかのぼって書かれた作品もある。ただ、ケーススタディとなるがゆえに、歴史・時代の全体像を捉えることは時間的・原理的に不可能となる。
 そのため、観点1を推すならば歴史教育や現代文(古典を含めた日本語評論)との連携が不可欠となる。
 ところが、古典の専門家から歴史教育・現代文教育をどうするという話はほとんど聞かない。教科横断が言われ始めているご時世で自分たちの専門のことばかりを語りすぎている印象がある(正確には"自身の専門外について語らなすぎ"というべきか)。歴史については教科が違うという問題もあろうが、現代文については同じ国語科なので、連携自体は難しくないはずである。
 ついでに言えば、観点1について、古典推進派は類似の諸外国の例をきちんとリサーチし、多少なりとも言及したほうがよい。この問題にすら言及せず「古典は大事」と主張するのは、古典教育についてのやる気を疑われるレベルだと私は思う。

president.jp


・観点2(問題解決の知見)について
 前提1で述べたように、国語教育の分野「古典」には、人類の叡智としての古典からみると著しい制約がある。繰り返すが、漢文を除いて諸外国の古典や明治時代以降の古典は"対象外"である。

 だから、アダム・スミスケインズも扱えないし、福沢諭吉吉田松陰も扱えない(かなり致命的)。そもそも「社会」や「経済」という概念自体西洋の学問の輸入なので、前提1のような縛りで社会問題の知見を得ようとすること自体に無理がある。

 それゆえ、問題解決の知見という意味でも現行の「古典」は非常に心もとない。実際、古典と称する知見でもって、議論の大元であるシングルマザーに対し先人の知恵を提供した古典推進派はいなかったと理解している。
 それどころか、老子の「無用の用」、松尾芭蕉の「不易流行」という長期的には有益と思われる知見もあるはずなのに、古典推進派の多くは一般論に終始している印象だ。
(さらに言えば、今回のゲストはどちらも古典文学の専門家。漢文についての言及も少なかった印象)

 私見では、私は日本という国を”他国の文化・技術を貪欲に吸収し内面化することで発展・維持してきた国”だと理解している(他国でも多少なりとそういう面はあるだろうが)。観点1のような日本固有の文化・伝統もある程度学ぶべきとは思うが、他に学ぶべきことが増え、日本経済が困窮し始めている現実がある中で「古典は大事」と言い続けることに私は違和感しかない。

 古典推進派は一般論として「人類の叡智」としての古典を解き、脱必修化論・不要論に反発するが、自身が推している「古典」の制約を正しく理解しているのかかなり疑問なのである。

  明治時代の古典(国語では現代文扱い)『学問ノススメ』を引用して、この観点の考察は打ち切ることとする。

学問とは、ただむずかしき字を知り、し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(中略)今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

 


・観点3(資質能力)について
古典推進派の立場に最大限寄り添うなら、私はここが最大の突破口になると考える。
(もとの動画ではあまりこの観点は重視されていない印象だが)
国語という教科の枠で"国語を活用する"場面となれば、作文指導の一環として"翻訳"や"解読"が有効という面は理解する。そして「国語」という科目で国語以外の言語を扱う性質上、おそらく古典文法で書かれた文献(前提1の意味での古典)を扱うのが妥当だろう。
 ただし、その場合でも以下の4つの疑問に答えておく必要がある。
 疑問3-1:限られた時間でどこまでのスキル習得を目指すか。
 疑問3-2:”現代社会を生き抜く”という目的との因果関係をどう説明するか。
 疑問3-3:翻訳済みの文献や機械翻訳とどう両立するか。
 疑問3-4:そもそも古典学習が資質能力向上に有益なのか(エビデンスはあるか)。

 現時点で私はこの疑問について詳しく言及している余裕はないため、詳細は割愛する。
 いずれ、時間のあるときにこの詳細をブログでまとめることにしたい。

 参考:高校国語教育の改善に向けて(日本学術会議

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t290-7.pdf

 


・最後に
 古典に関する今回の議論は、究極的には優先度の問題になる。しかしながら、優先度を議題とするなら、本来は他分野の存在意義についてもある程度具体的に言及されなければならないと考える。とりわけ、ひろゆき氏が古文漢文について言及するきっかけである"子育て支援社会保障を学校教育でどう扱うか"についてはそれ単品で言及・議論が必要なのではと思う。
 ところで、一部SNS上では古典と比較する形で「微分積分」についての話題が取り上げられていた。せっかくなので、次回のブログでは「数学教育における微分積分の有用性」を論じてみることとする。子育て支援についての言及もいずれ、少なくとも知りうる情報源くらいは出したいと思う。(おそらく、そのころにはこの手の議論は下火になっているだろうが)

 

参考:

togetter.com

ひろゆき氏の古文漢文不要論に、国語教育関係者は何を思うか #国語教育 #こてほん

久々に国語教育に話題に触れる。
今回は主に古文漢文の話題。


2月中旬より、こちらの記事が話題になっているようだ。
記事の執筆者はひろゆき氏。


古文や漢文よりも「困ったときの役所の使い方」を義務教育で教えるべき

nikkan-spa.jp


Twitter上で話題になっているのはYahooの転載記事であるが、Yahooの記事は一定期間たつと消えることが多いため、転載元のSPAの記事を挙げる)

本ブログの立場を述べる前に、論点が拡散しないよう前提条件を確認する。
・記事の発端は、シングルマザーの子育て不安への悩み(養子に出すことを検討するレベル)にひろゆき氏が回答を試みたこと。
・記事の趣旨を私なりに解釈すると、「学校(≒義務教育)は、役所に子育て支援相談に行くなど、生活に役立つことを教えていない。子育て支援より教師の雇用を優先している」である。
ひろゆき氏が優先度が低いと考える教育内容の例として、記事では古文漢文が取り上げられている。


以上3点を踏まえ、本ブログの見解を述べたい。

 


”ほぼ同意”である。

 


国語教育の関係者ならば、古文漢文の必要性を堂々と疑問視するひろゆき氏の見解に何かしら意見を言いたくなることだろう。が、今回伝えるべき本当の相手は、生活に困窮し、子育てに深く悩んでいるシングルマザーであることを忘れてはいけない。さすがに、彼女のような立場の者に「子育てよりも古文漢文を」と説く教育関係者はいないと信じたい。

あるいは、彼女の当面の悩みに寄り添いつつ、長期的な視点から古文漢文の意義を説こうとする方もいるかもしれない。その場合、伝え方は「日本語・日本文化のルーツ」「現代日本語力の強化」「人文科学系の教養の幅を広げる」などいくつかの観点があるだろう。

ただし、その場合でも他の科目・項目との優先順位を意識しながら言及しなければならないだろう。本稿では詳しく立ち入らないが、少なくとも高等学校で古文漢文の授業を「必修」とすべき積極的理由を私は見いだせない。古文漢文の意義自体は私もある程度理解するが、「選択でよい」「原文に触れる必要はない」「小中学校でも学んでいる」と言われれば返す言葉が思いつかない。

 

この件で思い出すのは、2018年に東京で行われた古典シンポジウムである。

手軽に内容を知りたい方は、こちらのブログが参考になる。

「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた

dain.cocolog-nifty.com

このシンポジウムの内容は、のちに書籍化されている。

www.amazon.co.jp

このシンポジウムは、高校の古典教育への危機感(古典教育の存在意義を疑問視する多くの声)から、反対意見に耳を傾けつつ古典教育の意義を考え直すものであった。詳細はブログか書籍をご覧になっていただきたいが、賛成派・反対派の意見がかみ合っておらず、コンセプト通りには議論が深まらずに終わった印象がある。
個人的に不可解なのは、今回のひろゆき氏の記事の賛否を述べる際、観測範囲では誰一人このシンポジウム(あるいは書籍)について言及していないということ。この記事を書いたひろゆき氏もシンポジウムの存在を把握しているようには感じないし、シンポジウム関係者はひろゆき氏の見解について何も触れようとしない(無視しているのか、把握していないのかは不明)。シンポジウム内容がいかに浸透していないかが浮き彫りになったと私は見るが、本稿の読者はどう見るだろうか?

 


最後に、古文漢文とは別の切り口でひろゆき氏の見解にコメントしておきたい。

彼への批判/賛同というよりは、この話題を掘り下げるための私見である。


それは、そもそも、学校教育で「役所の行き方」のような指導は”有効”なのか?という疑問である。(できる/できないではないことに注意されたし)

断っておくと、私は「役所の行き方」のような実用的な内容は基本的には教えるべきという立場である。個々の教師にもそれくらいの知識は持ち合わせていると理解するし、”教えろ”という方針が出れば教えることはできるだろう。

ただ、それを学校で教えるのは”有効”なのか?。


おそらく、学校単位、自治体単位で方針を出すことはできるだろう。
だが、保護者は、社会は、そこを優先的に尽力した学校・社会を好意的に評価するだろうか?
私の意見はNoである。

 

社会が評価するのは、究極的には進学・進路実績か、いじめ等の学校対応くらいではないか。
近年話題となっている、アクティブラーニングやプログラミング、SDGsにLGBT教育なども、最終的にはその文脈につながらなければ好意的には評価されることはないはずである(だから指導要領改訂や入試制度改革が話題になる)。子育て支援に時間を割き、受験やいじめ対策がなおざりにでもなれば、その学校・教師への評価は十中八九マイナスに傾くだろう。

そして、今回のような事案に対し、国語教員にできるのは、せいぜい多量の文章を読み、考え、伝えるというリテラシー的な部分に限られるのではないか(つまり、論理国語的な授業?)。そして、今回のひろゆき氏の見解に賛否を唱える場合、そうしたリテラシー部分と古文漢文指導との関係にフォーカスした議論をするのがもっとも生産的なように思われるが、いかがだろうか?

もっとも、後半部分(特に社会が学校をどう評価するか)は私の私見であり、関係者が「そんなことはない」といえば棄却されるレベルのものである。個人的には、関係者からは積極的に「そんなことはない」と発信していただきたいとすら願う。

 

【おまけ】

今月末、今回紹介した本の続編が出るようである。

高校に古典は本当に必要なのか | 長谷川 凜, 丹野 健, 内田 花, 田川 美桜, 中村 海人, 神山 結衣, 小林 未來, 牧野 かれん, 仲島 ひとみ, 長谷川 凜, 丹野 健, 内田 花, 田川 美桜, 中村 海人, 神山 結衣, 小林 未來, 牧野 かれん, 仲島 ひとみ |本 | 通販 | Amazon

【追記】

公開1時間でタイトル変更。旧題は「古文漢文VS役所の使い方論争に、国語教育関係者は何を思うか」。タイトルに「不要」や執筆者の名前がないと、この問題に関心をもつ人の検索にひっかからないことに気づき変更する。個人的に、人名はタイトルに持ってきたくはないのだが・・・。

うっかり文庫版『ローマ帽子の謎』#ニコニコ動画

年末年始、外出などができないことから2年ぶりに動画投稿に手を出した。

それがうっかり文庫版『ローマ帽子の謎』。

※原作の問題編のみを15分程度にまとめたもの。こういう、著作物の一部内容を動画化したものはニコニコ動画にて「うっかり文庫」の呼称で投稿されており、本作はそれに倣ったものである。

 

 

本稿では、動画投稿の経緯について、これまでのブログ発信から逸脱しない範囲で現時点での考えをまとめておく。

本来なら、他の動画投稿者様のような原作や素材(主に東方project)に関する考えを出すべきだろうが、これまでのブログ読者にとっては唐突すぎるだろう。その手の内容は本編では触れず、終盤の【おまけ:制作メイキング】に記した。気になる方はそちらを参照されたい。

 

【本編1:動画投稿の背景】

ブログで国語の問題に言及してから、実は私はエラリー・クイーンの小説を何冊か読み始めていた。年末年始も同様であったが、年末年始で外出などができないからか、家にこもるうちに読み込んだ内容を吐き出したい衝動にかられたのが直接のきっかけである。長期的にはやるべきことがいくつもあるため、抑圧するよりも、時間があるうちに制作したほうがよいと考えたのだ。

そして、時々視聴していたニコニコ動画を参考に素材を集め、シナリオを書き、完成させたのがうっかり文庫版『ローマ帽子の謎』である。3日程度の粗削りであるが、そこそこのものが完成した(良作になったか否かはなんとも、である)。

過去の動画作品と傾向が異なるのは、同様の作品の傾向(とくにゆっくり文庫系)のスタイルに合わせることで、他のうっかり文庫作品との違和感を減らしたかったことが大きい。旧動画のオマージュも考えたが、結局見送ることに。

 

【本編2:なぜエラリー・クイーンか】

直接には、エラリー・クイーンを取り上げた作品がニコニコ動画や他の動画サイトをみてもほとんどなかったことが大きい。著作権的には微妙なところであるが、この件で報酬を得る予定はないため、ある程度は許容されるであろうと判断したのだ。

 

もっとも、エラリー・クイーンに手を出した経緯は、これまでのブログ発信とも無関係ではない。国語教育の問題、とりわけ「論理と文学の二分」の問題を考える中で、橋渡しの可能性を推理小説に求めた点が大きい。

 

探偵エラリー・クイーンは、数ある推理小説の人物の中でも「推論」を重んじる、というのが私の理解である。裏を返せば、事実や証拠、人間の心理といった側面を推理の際にやや軽視する傾向がみられる。本動画の原作『ローマ帽子の謎』でも、犯人を特定するためには”被害者の帽子の紛失”という事実にフォーカスした推論が必須となる。被害者を毒殺するだけならば、動機面でもアリバイ面でも犯行が成立しそうな人物は何人もいるのだから。

併せて、犯人特定には一見すると犯行不可能に見える状況・証言にダウトをつきつける必要がある。あまり深入りするとネタバレになるが、

・死体発見直後に帽子を持ちだせたか?

→死体発見直後に警察関係者の1人がその場に居合わせており、かつ帽子紛失の事実に違和感を唱えていない。つまり、死体発見段階で帽子はすでに消えていたため、死体発見直後に帽子を持ちだした可能性は消滅する(刑事が犯人なら別だが)。

・被害者と接触した男に帽子の持ち出しは不可能か。

→実は可能。受付嬢の証言で「S席(ドレスコート必須)の客で帽子を2つ以上持ち出した人物はいない」とあるが、帽子をコンパクトにまとめることが不可能であることが暗黙の前提となっている。実は、そのような帽子の存在が、作中で”さりげなく”言及されており、それに気づけば容疑者を大幅に絞り込むことができる。

・ジュース瓶に事前に毒を仕込めたか?

→ジュースの在庫切れは想定外。作品内で被害者のジュースの好みや在庫の保管状況については言及されていないため、それを想定した推理自体に無理がある。これについてはさりげなく言及された箇所もない。それどころか、ジュース売りが直接被害者に商品を届けたために、ジュース自体がすり替えられた可能性を消滅させる結果となっている。

探偵クイーンはこうした推理傾向を持つため、文学作品で論理について考える、という題材としてはかなり面白いのではと感じた。ただ、国語の授業教材としては『ローマ帽子の謎』は長すぎる。クイーンの短編は未読であるが、短編に挑戦したほうがよいのかもしれない(もっとも、殺人事件を扱う小説が国語の授業にふさわしいかという問題もあるが)。

 

【本編3:ブログ主は文学に無関心か?】

私はこのブログで度々”文学についてドライ”ということを公言してきた。

過去の私のブログを読まれた方は、もしかしたら”ozean-schlossは文学系の書物をほとんど読まない”と思われているかもしれない。

概ね正しいし、私の読書における文学の割合はせいぜい3%である。

ただ、”3%程度”であって、ゼロではない。

(2020年はクイーンの作品だけで10冊近く読んでいるためもう少し多くなるだろう)

そして、”文学についてドライ”という私のスタンスは、

・読書における文学作品の比重の低さ(文学以外で読みたい本が圧倒的に多い)

以外に、

・文学作品の登場人物・状況設定に感情移入しない

という面がある。

この点については賛否がわかれるところであろうが、私が文学作品を読む際に念頭に入れているのは、主として作者・作品の世界観や文体をつかむことにある。登場人物の考え方や行動を参考にすることのゼロではないが、経験上、特定の著者に感情移入しすぎると、それに合わない考えの著作を読むのが苦しくなる。そうした読書観があってもよいが、少なくとも多種多様な本(文学以外を含む)に接したいと考える私の読書観とは相いれないと考える。

 

【本編4:今後について】

今回の動画投稿の際、ブログやTwitterなどを分割すべきかどうかかなり迷った。実のところ、今回の動画では独自の考察動画やファンアートをいただく結果となった(これ自体は大変うれしい)が、こうした反響をくださる方々と私の読書観・作品観が彼らと相いれるのかどうか、特に彼らの定期的な投稿意欲に水を差さないか不安で仕方ないのだ。

www.nicovideo.jp

 

とはいえ、今回のような動画投稿を今後も行うかどうかはわからないし、そもそも私は休眠中であるがもともと動画投稿者だったのだ。今後、不都合が出てきたら動画投稿者としての私と、国語を含めた学問知に関する発信をする私を分割するかもしれない。

なお、うっかり文庫版『ローマ帽子の謎』は、投稿段階で”解答編は制作しない”と明言してある。思わぬ反響があったため、解答編の制作についても考えたが、今回の反響は今回のようなスタンスがあったからこそだと思っている(つまり、今後解答編を作成すること自体が本動画の価値を損ねる可能性がある)。なので、『ローマ帽子の謎』の結末が知りたい方は原作を読んでいただくか、他の動画投稿者が解決編を投稿するのを待っていただきたい。

もし、私自身が再び動画投稿をするなら、別の内容の動画になるだろう。

エラリー・クイーンか、他の作品になるかはわからないが。

なお、本ブログでは今後も、動画投稿とは無関係に不定期な発信を続ける予定である。特に、文学愛・創作愛を期待される方はご注意いただきたい。

 

 

 

 

【おまけ:制作メイキング】※マニアックな言及に注意!

ここからは、動画制作の背景(素材選定など)の話をする。

 

まず、キャスティングについて。

他者様の動画作成方針に従い、今回はきつね式ゆっくり(元ネタ:東方project)を使用。キャスティングについては

・主要人物については他のミステリー作品と重複させない

が絶対条件だった。最終的に主役はてんこ(比那名居天子)を起用。その理由は主人公エラリー・クイーンの性格設定との乖離が小さいのもあるが、最大の決め手は動画後半に出てくるBGM「天衣無縫」の使用を考えたことにある。エラリー・クイーンはメディア化の少ない作品なのでBGM素材が少ないのだ。

そしてこのBGMを使用するなら、主人公役はてんこ一択になる。

www.youtube.com

 

ただ、主要人物のキャスティングは少々悩まされた。てんこは”天人”(ただし不良気味)という設定があるため、彼女と対等以上の関係になる人物でなければ父親かつNY警視のリチャード・クイーン役に当てはまらないのだ。最終的には地獄の閻魔えいき(四季映姫・ヤマザナドゥ)を起用し、クイーン警視の部下トマス・ヴェリー役にえいきの部下こまち(小野塚小町)を起用する。本作のヴェリーの台詞回しが原作とかなり違うが、練り直す手間を惜しんでそのまま投稿した。

なお、てんこの従者ポジションにはいく(永江衣玖)がいるが、彼女は原作未登場の秘書ニッキー・ポーター役として序盤と終盤に登場してもらうことに。観測範囲では、原作ファンの中にはニッキーの存在を快く思わない人もいる(何より、正規のエラリー・クイーン作品でニッキーの出番は2回しかない)ため、続編が出た時の彼女の扱いについては要検討である。

 

その後のキャスティングは制作過程で何となく決定。

原作では登場人物が30人程度いるが、最終的に15人(ニッキー除く)まで減らす。

原作で登場し、動画で未登場の人物は以下。

・ジューナ:クイーン家の使用人。準レギュラー。

・サミュエル・プラウティ:検死担当の医師。準レギュラー。

・サディウス・ジョーンズ:毒物学者。テトラエチル鉛の分析を行う。

・ヘンリー・サンプソン:地方検事。法的な立場で警察を支援。準レギュラー。

・スタッカード医師:観客の中にいた医師。警察到着までの検死を担当。

・ハリー・二―ルソン:劇場の宣伝マン。警察への連絡やチケットの確認を担当。

・ゴードン・デイヴィス:劇場のプロデューサー。空気。リストに名前なし。

・フィリップス夫人:劇場の衣装担当。エラリーを楽屋に案内する。

・エリナー・リビー:劇場のアイスクリーム売り。ジェスのアリバイを補完。リストに名前なし。

・フランクリン・アイヴス・ポープ:大富豪。令嬢の父親。

・ルシール・ホートン:劇団女優。空気。

ヒルダ・オレンジ:劇団女優。令嬢と友人関係。でも空気。

・アンジェラ・ラッソー:被害者の愛人。被害者の足取りを証言。

・オスカー・ルーイン:被害者の事務所の事務長。

・ドイル:事件発生時にその場に居合わせた警官。

・その他、警察関係者多数。

 

事件関係者を絞ったところで残りの関係者をキャスティングする。

もちろん、犯人は以下の人物の中にいる(そして原作通り)。

・被害者モンティ・フィールドは帽子の存在が必須。まりさ(霧雨魔理沙)一択。

・ローマ劇場=紅魔館に伴い、支配人ルイス・パンザーはれみりあ(レミリア・スカーレット)で確定。原作では要所要所で呼び出しを受ける忙しい人物。本作では劇場に詳しい設定を活かし、原作未登場の衣装役を兼ねる。なお、後半のエラリーとの会話は原作にはなく、犯人確定後にクイーン警視が部下に聞かせた内容である(原作では革新まで触れている)。原作では劇場復帰後に劇場内を再調査しているため、それを防ぐためのIF設定である。証言・アリバイなどを大幅にカットしたため、代わりに本編で「犯人ではない」とエラリーに明言させた。

・劇場関係者はなるべくれみりあの側近と考えたが、最終的にそのままなのは受付嬢マッジ役のさくや(十六夜咲夜)くらい。重要証言者のジュース売りは当初チルノだったが、キャラが合わなさ過ぎたためりぐる(リグル・ナイトバグ)に変更。宣伝役ニールソン役にめーりん(紅美鈴)を予定したが最終的に存在ごとカット。ぱちゅりー(パチュリー・ノーレッジ)は知識キャラなので当初から弁護士モーガン役に。ふらん(フランドール・スカーレット)に至っては原作のあぶなっかしい設定から被害者の用心棒チャールズ・マイクル役となる。

・劇団関係者および令嬢フランシス・アイヴス・ポープは配置に悩んだ。最終的に令嬢役をゆゆこ(西行寺幽々子)、恋人の俳優スティーブン・バリー役をようむ(魂魄妖夢)として残りの役を配置する。彼女らは終盤で重要なポジションになるが、原作の結末を考えた時にこの配置が良いのかどうかは悩みどころ。他の動画を見る限り、ゆゆことようむが恋人関係という動画は少ない印象。

・原作ではバリー以外の俳優が軒並み空気。貫禄を出すため、主演男優役はきめえ丸(射命丸文?)、主演女優はさなえ(東風谷早苗)とした。バリーも含め、作中の舞台での証言は原作では警察の捜査によるもの。”劇団の先輩”の存在は本作の独自設定。

・最後まで悩んだのがれいむ(博麗霊夢)のポジション。消去法で小悪党ジョニー・カザネッリ役となる。原作では”牧師”の異名を持つ人物で、クイーン警視に叱り飛ばされてからはかなり下手に出ているが、れいむが担当になったことで妙な貫禄が出てしまった。

 

その他、シナリオも大幅に短縮したが以下略。不明な点があればTwitterのDMでお尋ねを。