新年早々怒りの論理国語批判、国語関係者の黙殺が続いている件  #国語教育 #論理国語

新年早々、こんな記事を目にした。

dot.asahi.com

私が類似の記事から新課程国語の問題を取り上げて1年半ほどたつが、今頃になってこんな発信を見ることになるとは思わなかった。
しかも今回の発信者は山口謠司氏(文献学者・大東文化大学)。
国語の一領域、漢文の専門家からである。


1週間ほどTwitterで様子見をしていたが、今回も賛否が分かれていた。
今回に限ればやや記事に否定的なコメントが多めの印象。
コメント数が多く、今回は3つに分けてあるので、よろしければ下記Togetterをそれぞれご覧いただきたい。

togetter.com

 


元記事の発信の問題について、2020年の榎本氏とほぼ同趣旨なので言及する必要はないかと当初は考えた。が、SNS上での反響が高い一方、肝心の国語関係者の反応が観測範囲でもとにかく鈍い。山口氏の発信の雑で擁護しづらく黙殺しているというのが本音だと私は推測する。

私も彼の意見にはほぼ反対の立場だが、新課程開始前にここまで雑な主張をされても面倒なので、今後を見越して反論を試みる。

 

山口氏の記事の問題点は大別して「文学による情操教育を絶対視しすぎること」「学習指導要領や新課程推進側の見解にとかく無知であること」の2点に集約される。以下列挙。

  • 論理重視、文学軽視の流れを「明らかにおかしい」として立論としており、新課程の背景を(批判するにせよ)理解しようとする姿勢が伺えない。端的に言ってはじめからケンカ腰である。
  • 江戸時代の教科書『庭訓往来』と明治期の文豪(夏目漱石正岡子規)を引き合いに出し、江戸時代に逆戻り、深く物事を考えなくなるという推論に飛躍がある。”実用書を与えると考えなくなる”はそもそも当時の事実として存在したのか?そもそも比較対象が明治期の文豪なのはなぜ??文豪以外に明治期に多数の偉人がいたことを思えば、山口氏は文学の世界しか視野にないと邪推されても仕方ないだろう。
  • 契約書や取扱説明書のような文章に論理性を超える力はないと断ずる根拠は?契約書は確かに平易に書かれているものもあるが多くは建前上でしかない。そもそも山口氏が契約書の解説本や共通テストサンプルに言及する様子はなく勝手なイメージで言及している可能性が高い。そもそも論理国語自体、実用文以外に評論なども扱う科目である。批判対象である論理国語を不当に矮小化していないか。
  • 「自分の範疇を超えた他者の気持ちがわからない人」に育つ違いないと断ずる根拠も不明。私のように文学への関心を失った者がこれを聞いて何を思うかへの想像力が不足している(私個人は道徳性を否定された気分になる)。事例として挙げる「ごんぎつね」なども高校国語の事例としては不適当だし、そもそも高校国語は人格形成(情操教育)のみを目指していないし、人格形成重視の国語教育を問題視する国語系の論考も少なからず存在する。
  • 後半では大学入試から論理的文章が小中学校に前倒しで行われることをも危惧する文章があるが、山口氏は論理的文章をいつ習わせるなら容認するのだろうか?批判のタイミングが時期尚早であるし、結局のところ学年無関係に論理的文章を扱うこと自体に反対としか読めない。
  • 「文学は論理を超越する」は論理教育を是とするなら完全に悪手。論理的でない要素を含む文学は本質的に論理指導に適さないことになる。論理学自体が文学のようなレトリカルな要素を取り除くことで発展した経緯を真っ向から否定していることに山口氏は気づいているのか?
  • 論理指導をするならフランスのバカロレア式にすれば的主張も理解に苦しむ。それが実現した場合には現代日本文学どころか現行の古文漢文が大打撃を受けるが山口氏はそれを是認するのか?
  • 教科名が「日本語」でなく「国語」と呼ぶ意味を考えよと締めるが、すでに学会レベルで「国語学会」的な表現は少数派になっている点を山口氏はどう考えるのか?


怒り任せであるせいか、山口氏の論考は論理重視の流れを批判する立場でありながら根拠不足や論理飛躍がまま見られる。厳しい言い方だが、”論理国語批判が論理性に欠けている”という痛々しい事態と捉えられても仕方ない。


そして、この件とは別に気になるのが、この記事について国語関係者はほぼ沈黙している点。部分的にも山口氏に同意する/同意しない点があるなら切り分けたうえで発信するのが前向きな対応だと私は感じる。沈黙したまま新課程国語が4月からスタートするを彼らは容認するのだろうか。

 

私はこの期間中、数名の発信者に議論を試みた。

個人特定につながるため具体的な引用を避けるが、互いに納得できる議論ができた場合もあれば、そうでない場合もあった。幸いにも議論の最中にブロックされる事態は今回も回避できた。

ただ、共通するのは、教育関係者か否かを含め、多くがそもそも学習指導要領をまともに読んでいない印象。あくまで観測範囲と断っておくが、学習指導要領の根拠を求めると話を逸らしたりトーンダウンする方がほとんどなのが実情である。

 

山口氏の記事の反響は、1週間たった今かなり沈静化している。
私としては専門家からもっと掘り下げた論考を見てみたい。

 

・・・と思った矢先、今度は読売新聞の社説。

www.yomiuri.co.jp


読売新聞は私が知る限り、他紙ほど新課程国語については言及してこなかった印象。
何をいまさら、とだけここでは言及しておく(同種のツイートも観測済み)。

一応、ツイッター上でのその時のつぶやきを引用しておく。

もし私への意見があればツイッターでもブログでも遠慮なくどうぞ。

 

そして、可能であればブックマークや拡散もお願いしたい。

(個人的には、名前が知られないまま同種の主張が広まるのが理想だが)

ゆっくり文庫風『シャム双生児の謎』with 指環 投稿あと語り #ニコニコ動画

2021年の9月と12月に、ニコニコ動画に以下の動画を投稿した。

  本記事はクイーン原作『シャム双生児の謎』のネタバレになるため閲覧注意。
(一応、犯人が誰かだけは伏せてある)

 

 

【本編1:なぜ作った?】
5月に投稿した『エジプト十字架』を中断した状態なのだが、6月に江戸川乱歩『指環』を巡る投稿企画があり、それに後発ながら便乗した形である。

タイミングを逃すと今更感が出てくるため、急遽シナリオを作成。当時は2ヶ月程度でできると思っていたが、実際には前編・後編で各3~4か月を要した。
よく考えれば、私はゆっくり文庫系作品を結末まで作ったことがなかった。
結末をまとめる苦労を今回、身をしみて感じた次第である。

現在は『エジプト十字架の謎』完結に向けて制作中・・・といいたいが、新年早々国語系のニュースが飛び込んだため停滞中(私の中ではそちらが優先なので仕方ない)。余力があれば、2022年後半に新訳が発売される『靴に棲む老婆』を製作したいと思っているが、おそらく実現することはないだろう。

 

【本編2:シナリオ作成の経緯】
原作と話の展開が少なからず変わるため、シナリオには相当悩んだ。


まず、いかに江戸川乱歩『指環』の話を”自然に”本編に関わらせるか。

原作の『シャム双生児の謎』はクイーン親子が山火事で足止めを食らい、ジョン・ザビエル氏らが居住する館を訪問するシーンからスタートする。その後関係者の紹介があり、2件の殺人事件が起き、その過程で双子がようやく登場する。タイトルにもある双子の登場時期自体が遅く、さらに双子の存在が事件の本筋に絡むかというと微妙(ダイイングメッセージで双子が疑われるのは原作準拠)。現場のトランプも事件解決の中核というよりは犯人特定の決め手につながる”紛失した指環”の手がかりの目くらまし的な側面が強い。ただしこの構成が見事に江戸川乱歩『指環』に通じる部分があり、だからこそこの『シャム双生児の謎』を選ぶことにした。


ただ、本事件は事件の最初から”館に迫る山火事”というシチュエーションがあるため、ほのぼのと謎解きできる状況にそもそもない。そのため、館の人間に山火事の存在を伝えるクイーン親子視点ではなく、外部から秘匿された存在である双子視点で話を進めることにした。山火事を知る前なら、山火事が迫るシチュエーションでも興味深く『指環』の話に入り込めるし、終盤の地下室での時間つぶしにも応用できる(原作はカロー夫人の出産をめぐる過去話となる)。そして何より、双子視点だと『シャム双生児の謎』のタイトルが原作よりも活きる。

そして、エラリー・クイーンの作品は主人公であるエラリーが自身が関与した事件を小説化したという設定があるため、この設定を活かすなら「なぜエラリーは原作で『指環』の話に触れなかったのか」に言及する必要があると考えた。本動画内では”エラリーが江戸川乱歩エドガー・アラン・ポーを混同して関係者に伝え、事件後に作者の間違いが発覚する”という構成にし、原作での『指環』カットにに一定の説明づけを試みた。かなりギャグめいたオチになったが(笑)。


さらに、本編の動画化は『指環』とは別にいくつかの問題点があった。以下列挙。

  • 登場人物の半数に設定上の仕事がない。原作では館の主がジョンであり、マークやサラ夫人はただの居候。館の仕事は使用人のボーンズと原作未登場のホイアリー夫人にまかせっきり。また館に双子の母マリーがいるため、秘書フォレストもホームズ医師と仲良くなるだけの存在。山火事という状況にもかかわらず何もしない人物が多く緊張感が薄い。
  • クイーン親子の事件捜査が迷走気味。エラリーはカードの暗号にひっかかりサラ夫人や双子に殺人容疑をかけ、夫人は一時錯乱、双子は母マリーとともにエラリーを非難する。リチャード警視も事件中盤で逃走したマークを拳銃で負傷させてしまい、さらに治療中のマークの警備中にクロロホルムをかがされて昏睡、マークの殺害を許してしまう(原作のマークの死因は毒殺)。
  • 事件後半で殺人容疑をかけられた双子が、終盤の事件解明で殺人容疑をかけたエラリーを慕う描写がある。殺人疑惑を晴らしたのもエラリーではあるが、設定上他人との交流が少ない双子があっさりエラリーを慕うのは単純すぎて不自然。
  • 館に地下室があるにもかかわらずそれ以外の手段に依存し、ことごとく失敗する。地下室の存在は館に火が回ってからリチャード警視がサラ夫人を問い詰めて発覚するが、なぜか水や備蓄食料などの運び込みは問題なく完了する。
  • 話の中盤でジョン医師の実験室の描写があり、実験動物の生存が確認できるが、山火事の後どうなったのか不明。
  • 山火事でクイーン親子の車が炎上するが、のちの事件で同じ車が再登場する。
  • 原作の終盤で犯人は燃え盛る館の地上部に逃走(自殺という説が有力)。しかし館はほどなくして鎮火している。

 

そして本動画独自の主な設定は以下。詳細は動画でご確認を。

  • 館の主はマークでジョン医師が居候。サラ夫人は家政婦。
  • 館はジョン医師の研究施設を改築したペンションとなる。
    (原作は現役の研究施設。空き部屋はあるが宿泊施設ではない)
  • 遭難客フランク・スミス、家政婦ホイアリーは未登場。スミスの立場はテリー、ホイアリーの立場はサラ夫人が担う。
  • 『指環』の情景描写はアメリカ準拠。乗客の固有名詞、オレンジやタバコの挿絵、車窓の風景もアメリカ風に。
    (ラシュモア山の彫刻が登場するが、原作発表の1933年時点では存在しない)
  • 地下室の存在は序盤に明かされ、はじめから地下室への避難が計画される。
  • 動物実験の埋葬地が発覚するのは山火事の直前。生存中の実験動物はいない。
  • 事件が昼間に発生、ジョン医師とマークが相次いで銃撃される。
  • トランプの偽装には左利き用はさみが使用される。
  • 利き手の検証はなく、関係者への聞き込みのみ。
  • 現場検証で先に双子、あとでサラ夫人が疑われる。疑いをかける人物もエラリーではなく、エラリーは疑いを晴らす役のみ。
  • 山火事の際に双子の母マリーが館に不在。殺人容疑で双子をかばう役は秘書フォレスト。マリーは山火事の救助を手伝う立場となる。
  • マークのトランプ偽造が発覚するのはマークの死亡後。
  • リチャード警視の指環紛失の経緯も異なる。
  • 山火事で引火するクイーン親子の車は代車。
  • 地下室の入り口はがれきでふさがり、換気口からの脱出を余儀なくされる。
  • その他、終盤の展開も部分的に変更。双子の脱出後の話もあり。


今回の反省点は以下の要素が盛り込めなかったこと。こちらも列挙のみ。

  • マリー・カローが双子の出産から今までをどう思っていたか?
    (原作では、見た目の奇異さで秘密にしていたが双子のことは愛していた)
  • マリー・カローの夫との過程、ザビエル夫妻の結婚までの過程。
  • オーナーとなったマークがなぜトランプをすり替えたか?
    (原作準拠なら事件に乗じてサラ夫人に罪を着せ、遺産の分け前を増やすため)
  • そもそもエラリーはどうやって『指環』を知ったのか?
    (原作には記載なし、構想では終盤にエラリーと接触する人物から教わる)

追記:今回は『ローマ帽子の謎』『エジプト十字架の謎』のような読者への挑戦状がない。『シャム双生児の謎』原作既読者はお察しと思うが、これは原作準拠であり、忘れたわけではない(念のため)。

 

最後に、素材の規約の件。

実は後編作成中にゆっくり素材の規約が変更(正確には規約の明確化)。ゆっくり文庫様から借用した一部素材が使用不可となった。こちらとしては使わせていただく意識を忘れずに使っていきたい。素材の規約についてはなるべく確認するようにしているものの、もし規約違反などあればコメントやTwitterなどでご指摘を。


【追記:ニコニコ動画上での反応など】

ブログ公開時点で忘れていたこと。

2021年8月30日に前編の試作版はニコニコ生放送で放映した。

(無料でニコ生が制限なく使用できる時期だったため)

何気に初のニコ生だったが、文庫関係者を中心にいくつもの反応を頂けた。

そして後編作成後、同じく文庫系動画を投稿するルイス足永様からの感想も。

ルイス足永様のように定期的に反応いただけるのはうれしい。

(同時に、これ以上動画投稿に力点を割けないのがもどかしい)

 

 

【おまけ:キャスティングについて】※マニアックな言及に注意!

今回は『ローマ帽子の謎』から一部キャラを再起用した。

今回のキャスティングの方針は以下:

  • シャム双生児はてゐとうどんげで確定(シルエットがカニに見えるため)
  • ホームズ医師はゆっくり文庫リスペクトでれいむ確定
  • 事件の舞台は高山の館→高山にある守矢神社の関係者

以上の条件の元であれこれ悩み、現在のキャスティングへ。
東方原作的には秘書フォレスト(早苗)と使用人ボーンズ(もこう)の立ち位置が浮いているが、クイーンの原作イメージとの整合性を取るとこうするしかなかった。フォレストの髪飾りを改変したのはただのお遊び。

具体的にはこんな感じ。()は東方作品での登場作品。
・双子の母マリー:えーりん永夜抄
・秘書フォレスト:さなえ(風神録
・双子フランシス:てゐ(永夜抄
・双子ジュリアン:うどんげ永夜抄

・外科医ジョン:かなこ(風神録
・ジョンの妻サラ:すわこ(風神録
・ジョンの弟マーク:きめぇ丸(風神録?)
・ジョンの助手ホームズ:れいむ
・使用人ボーンズ:もこう(永夜抄


ちなみに『指環』ではゆっくり文庫はじめ多くの投稿者に準拠して
・アラン(乗客A):れいむ
・ボブ(乗客B):まりさ
とした。他作との差別化のためころポン式のゆっくりを借用。
指環を盗まれた貴婦人役はころぽん式ようむも検討したが、”本編でれいむ、まりさが別役で登場し、ようむは登場しない”関係上、ころポン式に雰囲気が近い守口式さなえを使用した。車掌は罪袋一択だった。

 

そして本作では原作にいない人物が多数登場する。以下列挙。
()内はクイーン原作での登場作品。
・探偵テリー・リング(ニッポン樫鳥)
・雑誌記者ポーラ・パリス(ハートの4)
・看護師ジェシィ・シャーウッド (クイーン警視自身の事件)
・女流作家カレン・リース (ニッポン樫鳥)


テリー・リングは原作で迷走するエラリーの推理を代わりに請け負う役割。原作の『ニッポン樫鳥の謎』では殺人容疑をかけられた女性を匿い、エラリーに相談する人情味のある人物だが、本動画でそんな彼の人となりをどこまで再現できたかは不安。ちなみに原作『シャム双生児の謎』で盗み食いを働くフランク・スミス(クイーン親子と別の避難客)に立ち位置を近づけており、偽名はその時の名残。ちなみにエラリー・クイーン作品では他の作品でもエラリーと別の探偵がしばしば登場するが、テリーを起用した理由は名字の”リング”が最大の決め手。配役をまりさにした理由はなんとなく。

 

ポーラ・パリスは本編に絡まないが、原作と違い館にいないマリー・カローを館に向かわせる、双子に『指環』の本当の作者を伝える役を担う。本動画制作のために山火事について調べた中で火災積雲という現象(1975年以降に学会で認知)を知り、それを知らせることで結末に深みが出ると考えたため盛り込んだ。

原作の『ハートの4』でもハリウッドに不慣れなエラリーを独自の情報網と分析力で支援する人物であるため、原作の『ハートの4』をご存じの方もそこまで違和感がないのではと思っている。ちなみに『ハートの4』で対人恐怖症(事件後に克服)という設定があるため、同じ設定を持つはたてを起用。


ジェシィ・シャーウッドも本編に絡まず、館を支援するマリー・カローに山火事の状況を伝える役割(原作はモブキャラから手紙などで火事の状況が知らされる)。原作のジェシィは晩年の作『クイーン警視自身の事件』でリチャード警視と事件を解決し、のちにリチャードと結婚する人物。越前訳『シャム双子の秘密』でもジェシィについて解説がされているのでご参照いただきたい。個人的にはもっと本編に絡ませたかったが私の力量では無理だった。ちなみにリチャード役のえいきと対等な関係にしたかったため、えいきが登場する東方花映塚の強キャラゆうかを起用。


カレン・リースはのちに小説化する前にエラリーに『指環』の作者を伝える役割。原作『ニッポン樫鳥の謎』でもエラリーと面識のある日本通の女流作家という設定を持つ。当初の構想ではエラリーが『指環』の存在はカレンから教えられ、江戸川乱歩の語感からエドガー・アラン・ポーの作品と勘違いするという設定だったのだが、本編に絡ませると話が冗長になるため結局カット。ちなみに同作でテリーと共演するが、カレンは『ニッポン樫鳥』の序盤で死亡するため、テリーとやり取りする場面はない。日本人女性らしいイメージを重視してかぐや姫モチーフのかぐやを起用。

後編作成中に素材を変更したのはここだけの秘密(作成当初は文庫式だった)。

政権批判の自由はあれど、雑な推論はやめましょうという話

かなり久々にブログを更新する。

最近の発信はTwitterとTogetterに傾倒してしまったが、今回の話はTwitterで発信するのに向いていないと考え、ブログにて発信する。

 

ここ最近、国語教育の話ばかり発信している私だが、今回はやや政治の話。苦手な方は注意して読んでいただきたい。

 

 

【本文】

ここ数日、論理国語に関する以下の記事が再びSNS上で注目を集めている。1年前の8月、私が国語教育の発信を始めたきっかけの記事でもある。

 

 

その背景は10月末の衆議院選挙にむけて政権批判したい人が、批判材料として新課程国語を批判するというもの。例えばこれ。

両者ともにすさまじい勢いで拡散され、賛否を読んだ。

引用ツイートを見る限り、やはり新課程国語や文学軽視を批判する者が多め。

 

 

前者のツイートは純粋に記事に困惑していた様子だったので情報提供。第3者を巻き込む形にはなったが、割と良好なやり取りができた(多分)。

現在は私のくだらないツイートのフォロワーにもなってくださった。

 

 

他方、後者は実用文しか読まない人間をロボット呼ばわり。1年前の榎本氏といい、彼らは読書ジャンルの違う人間の気持ちへの想像力が不足しているように思う。文学愛好家が時々口にする「豊かな想像力」はどこへ行ったのか?

ともかく拡散力の強さによる第3者への影響を考慮し、ブロック覚悟で反論を試みた(ややきつめに)。

 

 

私のツイートが影響したかどうかはわからないが、この方のツイートはトーンダウン。RTやいいねは多いが、賛同するリプはほとんどなくなった。

反論もできたはずなのに、本人含めて反論はゼロ。

こちらは追撃を続けるだけ。

 

確認した後者の方の最後のツイート。このブログを書いている段階では反論しようかどうか思案中。

 

 

衆院選をきっかけに新課程国語に注目すること自体は悪いと思わない。1年遅れではあることには注意しつつも、納得するまで議論すればいい。

かくいう私自身が1年前からの発信だし、何より国語と無関係な部外者だ。

 

ただし、批判対象について下調べをするのは最低限のマナーだろう。事実誤認のまま煽情的な発信をすることほど見苦しいことはない。良くて徒労に終わり、最悪の場合は自分の足元をすくう形で帰ってくる。

表現の自由には、その程度の責任は伴うのだ(私の解釈)。

 

 

 

最後に、最近(文学的表現に苦悶しながら)読み進めているエラリー・クイーンの一節で閉めよう。

 

「真実とは不愉快なものだ。だが少なくともそれは真実”なのだ”。真実を知ればそれは知識となる。知識を持てば、君たちは永続的な決断をすることができる。」

(青田勝訳『災厄の町』p308より)

 

 

どうかこれ以降、私から政治的な発信をしなくて済みますように。

論理と文学の分断を招いたのは誰か? #国語教育 #論理国語

【はじめに】
今回も新課程国語への言説に対し批判を申し上げる。
今回は高校や教師個人に対し厳しい意見になることをはじめに申し上げる。
とはいえ、私は部外者ではあるが先生方の日ごろの活動には敬意を持っているつもりであり、特に近年、#教師のバトン で言及されるほどの多忙感があることは理解しているつもりである。

ただし、本記事の内容はそれとは別で言及されてしかるべきと考えるものであり、何より、不確かな情報源で現場が振り回されていることを心苦しく思うゆえの内容である。(いつも以上に)書いていることの齟齬や不備があればご指摘いただきたい。
コメントかSNSなどで発信いただけるのが一番有りがたいが。


【本題】

論理と文学の二分問題(新課程高校国語で論理と文学を二分するかのような教育課程の問題)は以前にもブログで取り上げたが、今なおそれを問題視する声は大きい。多くの記事は、以下の観点で共通しているというのが私の認識である。
・文学にも論理があり、文学と論理を分断するかのような新課程には問題がある。
・大学入試の都合で「論理国語」を選択する学校が多く、「文学国語」の選択は少ない。
 また他の科目の兼ね合いを考えれば両科目の同時履修は不可能。
・高校国語において、名作との出会いの場として文学の授業は重要(不可欠?)である。


また、論者によって意見がまちまちなのが、論理国語の内容についての反対意見。
私なりに集約すると以下の通り。
・論理国語の内容は契約書の読解。ほとんどの生徒は興味を持たない。
 (SNS上では契約書読解に関心を持つ者を変人扱いする意見もあり)
・論理国語の内容(特に論文読解・執筆)は大学で扱うほうが望ましい。
・論理国語の内容は現在の国語教師には指導できない。
 (中には社会科・情報科など他教科の教師に任せる意見もあり)

 

以下、本記事のために私が拝読した記事をリストアップする。
まずは批判的な立場(圧倒的多数)から。

 

「文学国語」の可能性① ―「学習指導要領」の読書感想文|神楽坂いづみ|note

暮らしと学問 23 論理と文学は分けることができるのか?|氏家 法雄 ujike.norio|note

【教育】2022年からの国語はトリセツが教材に…。私なら養老孟司や河合隼雄のエッセイを教材に使いたい|ハッピー書房(本と人生を考える)|note

新しい高校の選択科目「論理国語」という語の初出は文科省か、出口汪氏の著作か?|空の芽|note

上野さん、これは間違っています。|kensuke|note

論理を下支えするもの|こにし|国語科|note

「文学的」とはどういうことか?―文学と論理のはざまで|ちいさなへやの編集者|note

高校国語の科目再編 論理と文学、分断に危うさ: 日本経済新聞

契約書か漱石の『こころ』か、どちらかしか学べない? 高校国語の新学習指導要領に困惑の声 (1/4) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

東大文学部の白熱シンポジウムを書籍化、日本の教育改革にメス “ことばはツール”なのか? (1/2) 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校の国語から文学作品が消える!? 2022年の新学習指導要領に東大卒ママが物申す (1/2) 〈dot.〉|AERA dot. (アエラドット)

内田樹「子どもたちには『論理国語』よりもコナン・ドイルを」 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

高校国語で小説軽視?作家ら懸念 22年度に科目再編、「文学」と「論理」区別:朝日新聞デジタル

<特集「文学なき国語教育」が危うい!>現役高校教師座談会 「文学」で「論理」は十分学べる | 特集 - 本の話


国語の大論争 「論理国語」と大学入試 (中央公論)

 

そして、論理国語を是認する立場の発信はこちら。

「現代文」が「論理国語」「文学国語」に!文学離れは本当に起きるのか【出口式「論理エンジン」の考え方】 - バレッドプレス(VALED PRESS)

【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】(60)論理国語は素材次第だ - 産経ニュース

 

 

ちなみに私は、新課程国語には肯定的な立場である(改善の余地は認めるが)。
その主な理由は以下。詳細はここでは述べない。
PISA等の国際的な学力調査で高校生の読解力に課題がある。
・国内の産業界からもより高度な国語力を求める声がある。
・現行の国語教育は文学教材の読解・心情理解に著しく偏っていた。
 (少なくとも、そのイメージを払拭どころか強化する発信が今なお多い)
・高校生の教材への興味関心の幅は様々。文学の過剰な押し付けは害悪である。

 

 

そして、論理と文学の両立(「論理国語」と「文学国語」(そして古典)の同時履修)は、少なくとも文系については十分可能であると言及した。
あえて過剰に書くが、”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである。
詳細は私の過去ブログをご覧になられたい。

 

また、少なくとも学習指導要領上、「論理国語」「文学国語」の減単位(4単位→3単位)も可能である。
標準単位に過剰にこだわる必要はない。(文科省でもそれを容認する声があると聞く)
重要なのは学習内容・スキル習得であり、時間はそのための手段でしかない。
時間数が足らなくとも、まったくやらないよりははるかにましだと私は考える。

 

 

 

さて、以上のことを踏まえ、本題に入る。

論理と文学の二分を招いたのは誰なのか?

 

 

 

 

 

 

 

文部科学省か?あるいはその関係者か?


半分正しいが、半分間違っている。
それが本記事の私の主張である。

 

 

 

 

確かに、新課程の国語を作成した責任は文部科学省にある。それは間違いない。
しかし、公開された新課程をもとに、自身の裁量で「文学国語」の履修を断念したのは、まぎれもなく個々の高校側である。

 


昨年も言及したし、何度でもいう。
論理国語と文学国語の両立は”可能”である、と。
”論理と文学の二分”はミスリードであり、デマである、と。

 

この手の主張が正しいかどうか検証もせず、同時履修が不可能だと思い込み、大学入試に不利という理由で「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。
(当然であるが、文科省サイドはそのような発言をしていない。)


また、仮に両立不可能だったとしても、
「文学国語」単独で「論理国語」の目指す学習事項の履修も可能なはず。
”文学でも論理が十分学べる”という国語教育関係者も少なからずいるのだ。
彼らの実践をつぶさに学べばいい。
例えばこれ。

 


それにもかかわらず、”文学でも論理が十分学べる”という発言を信用せず(あるいは知らず)、”大学入試に文学国語は不利”という他校の動向をうのみにして「文学国語」を履修科目から外した。
それを決めたのは文科省でも、一部の推進派でもない。
個々の高校であり、それに属する教員である。

 

付け加えておくと、私自身は「論理と文学の二分」を容認する立場であるが、その理由は「文学に論理がない」と主張するためではない。高校国語が目指す「論理的な読み書き」実現のために、いわゆる文学教材とその他(評論文から契約書まで)では論理の性質が違いすぎると考えるからだ。

論理と文学の二分に違和感を唱える方々で、その両者の論理の違いを言及しているのを私はまだ見たことがない。
穿った見方をすれば、それくらい彼らは文学以外の文章、あるいは「論理」そのものに興味がないのかもしれない。

 

もし「そうではない。文学以外にも一定の関心を持っています(授業をしています)」というのであれば、ぜひとも情報(情報源)を発信するなり、論文・書籍などを紹介するなりしてほしい。
少なくとも私は、見つけ次第拝読させていただくし、しかるべき対価を払う用意もある。

 


僭越ながら、このブログ記事が国語教育の改善に寄与すれば幸いである。 

次回こそは数学教育の話をしたい。

ゆっくり文庫風『エジプト十字架の謎』Part1投稿あと語り #ニコニコ動画

先日、今年1月の動画『ローマ帽子の謎』の続編を投稿した。

 

www.nicovideo.jp

 

前回は年末年始の休みを使い3日程度で完成させたが、今回は難航した。

完結を見越してシナリオを作ったから?改変が多いから?それとも…。

いずれにせよ、Part1投稿までに約4か月を要した。

昔の動画『ゆっくり科学者列伝』(計7作+α)では最長でも2ヶ月。

そのことを想うと、長編作品ミステリーを動画化する難しさを痛感させられる。

同種の動画を作成されている方、そもそも原作を作られている方々に頭が下がる。

 

ただ今後も「文学にドライ」的な発信は続けるだろう。

コンテンツ作成に全力投球しているからと言って、他分野に対する敬意を欠く発言が許されていいとは思わない。かつてWikipedia執筆をしたり、科学系偉人の解説動画を作成した経験から心底そう思う。

 

 

【本編1:なぜ続編を作った?】

最大の理由は、前回の『ローマ帽子の謎』の反響が意外な形であったため、そのお礼としての意味が大きい。『ローマ帽子の謎』は問題編のみの「うっかり文庫」であり、だからこその反響という面がある。犯人が気になる的なコメントも多かったが、かといって解決編を作るのは、「うっかり文庫」としての魅力を損ねることになると考えた。

ならば、続編を作り、そちらで完結編までを作成しよう、そう考えたのだ。

そして、「うっかり文庫」として『ローマ帽子の謎』を作成した時に漠然と思ったのが、”うっかり文庫では大幅な改変ができない”ということ。

「うっかり文庫」は一部のみの制作が許容される代わり、”続きは原作を読んでね”で閉めることを余儀なくされる。大幅に変更し、作品内で完結させないまま”続きは原作で”だと、もはや原作との接点のない別物となる。それは視聴者にとってはもやもやが大きすぎるし、何より原作への敬意を欠く行為だと考えるのだ。

だから今回は、負担感が大きいものの全編を作ることにした。なぜ『エジプト十字架の謎』にしたかは後述する。

 

【本編2:『エジプト十字架の謎』の選択理由】

理由は3つ。

・投稿者にとって、エラリー・クイーンの作品で唯一幼少期に読んだ作品

エラリー・クイーンの作品内でも世間一般的な評価が高い作品の1つ

・動画化に当たり内容改変を余儀なくされる要素が多い

上2つのついては詳細は語らない。3つ目のみ補足する。

原作本のあらすじを読むだけでも、本作は”忠実な再現”には向いていないことがわかる。というのも、原作での殺害方法は”首を切断し、T字型の磔にする”だからだ。しかもこの殺害方法自体が結末に直結する。単純にグロテスクであるし、頭部しかないゆっくりで再現することも原理的に困難である。

ちなみに、私の動画ではTNTで爆殺され、顔の判別が不可になる”という形をとった。爆発物に”T”で始まるものを使用することで、”T”の見立ても成立する(やや専門的になるが)。宗教がらみのこの事件で爆弾を使うという設定に迷いはあったが、それを言うなら殺人事件を取り扱うこと自体が議論されてしかるべきだと思う。舞台となる1930年代アメリカについても調べ、少なくともこの頃のヨーロッパではTNTが使用されていることを確認済みである。

なお、これにともない、一部人物にTNT使用可能となるよう設定を変更した。詳細はキャスティングにも影響するためここでは省略。

完結編作成時に致命的な齟齬が出てこないことを祈る。

 

その他、Part1時点での主な変更点は以下。太字は後日追記項目(5/8)。

・物語開始はヤードレー教授との再会から。それ以前の物語は回想で。

・秘書ニッキー・ポーターが同行。ジューナは運転手フォックスの立場に。

・登場人物全員にフルネームあり。

リンカーンの妹へスター、隣人のリン夫妻、その他モブが未登場。

・原作でモブ枠の執事ストーリングスが容疑者の1人に昇格。

・アロヨ関係者で登場するのはクリング、ピート老人、ルーデン巡査のみ。

・クリングに元教師という設定が追加(実はTNT関係)。

 ・テンプル医師が検死役を兼ねたため死体発見時に出会う。大戦経験は原作通り。

・ブラッドの死体発見時刻が翌朝から当日の深夜に変更。発見者はヤードレー教授とジューナ・フォックス(原作はフォックスとリンカーン)。殺害にTNTが使われる設定上、爆音はごまかせないゆえの変更。

・ブラッド氏殺害時のアリバイ検証はエラリー訪問前に一通り終了する。内容も原作より簡略化。実はこの辺のシナリオ調整に一番苦労した。

・アイシャム地方検事が太陽教について無知(太陽教の説明を引き出すため変更)。

・太陽教についての全裸主義設定をカット。

・クロサックの身体的特徴を左足不自由→左耳ケガ(耳あて)に変更。ちなみに耳あては1930年代アメリカでは流通していない。

・メガラ到着が2日目に変更(原作は8日目)。

・メガラの一人称が「俺」。原作日本語訳は「私」か「僕」。原作で一人称「俺」があまりに少なくバランスを取る意味と、自前のクルーザーで旅行する男にしては紳士的すぎる原作設定への個人的違和感から。

・チェッカーの推理がPart1で完結。容疑者となったジューナ救済に使用。

 (原作同様に容疑者の絞り込み自体は行われる)

・ヤードレー教授別荘の家政婦として『ニッポン樫鳥の謎』のキヌメ、ジューナの保護者的立場として『フォックス家の殺人』のデイビー・フォックスが登場。

 

 

【本編3:今後について】

Part2以降の作成に邁進する。本業が忙しくなったためPart2は8月以降になる。

その関係上、Part1の続きを「おまけ」という形で流し、おまけ込みならPart1時点で犯人特定可能、という構成にしてある。本動画制作の趣旨と本業を両立しようと苦悩した結果なのでご容赦いただきたい。

ちなみに、Part2の書き出しはすでにTwitterで公開した。よろしければ。

 

 

【おまけ:キャスティングなど】※マニアックな言及に注意!

本作のキャスティングは以下。

 

今回は話の展開上のメイン人物に『東方輝針城』のキャラを充てた。具体的には以下。

わかさぎ姫・・・スティーブン・メガラ

赤蛮奇・・・アンドリュー・ヴァン

今泉影狼・・・ストーリングス

九十九弁々・・・マーガレット・ブラッド

九十九八橋・・・ヘレーネ・ブラッド

鬼人正邪・・・トマス・ブラッド

少名針妙丸・・・ジューナ・フォックス

堀川雷鼓・・・ジョナ・リンカーン

実は『ローマ帽子の謎』作成時点で、ジューナ役には針妙丸を充てるつもりでいた。原作でのジューナの立ち位置は留守番、原作のフォックスはいてもいなくてもよい(但し出番は多い)立ち位置のため、本作で両方カットしようとも考えた。

が、シナリオ作成中にジューナをフォックスのポジションに充てることを思いつき、現在の形となった。原作でフォックス(=ジューナ・フォックス)の殺人容疑は本編中盤まで引っ張られるが、本作ではチェッカーの推理を流用してPart1であっさり解決させることにした。

かくして『東方輝針城』総出演が実現。あとのキャラはそんなに迷わず起用。

なお、東方に詳しい方ならば、フォックスという名称で八雲藍を連想することを見越し、『フォックス家の殺人』のデイビー・フォックス役として登場させた。ジューナがジューナ・フォックスとなったことに違和感を抱く視聴者がどれだけいるかわからないが。

 

その他の登場人物の起用イメージはこんな感じ。

警察関係者(アイシャム、ヴォーン、テンプル)・・・三月精

太陽教関係者(ハラーフト、ローメン、クロサック)・・・神霊廟

アロヨ関係者(クリング、ピート老人、ルーデル巡査)・・・命蓮寺

ただし、クリング役の紅美鈴は『東方紅魔郷』、ルーデル巡査役のきょうこ(幽谷響子)は『東方神霊廟』のキャラ。クリング役にはのちの話の展開上”赤毛の東方キャラ”が望ましかったが、命蓮寺関係に赤い髪のキャラはいなかった。(5/8追記)

なお、この起用イメージは、ハラーフト役の物部布都、ピート老人役の雲居一輪が個人的なはまり役でこうなった。今思うとクロサックも割とはまり役。ちなみにハラーフトの名は翻訳によってはハラークト、ホルアクティと呼ばれることもある。

 

ちなみに、警察関係者に三月精を起用した理由はこの動画の影響。

『エジプト十字架の謎』と別の形で”T”も登場する。

www.nicovideo.jp

 

最後に、ヤードレー教授役は八雲紫一択だった。私の中でヤードレー教授は”正義のモリアーティ”で、本家ゆっくり文庫で八雲紫を充てているので。

www.nicovideo.jp

ただ、東方原作でエラリー・クイーン役の比那名居天子と仲が悪いのはご愛敬。

話題の多くは、案外昔から誰かが口にしている #アベプラ #数学教育 #教師のバトン

ブログ投稿が1ヶ月以上空いた。

 

この間、前回の記事で挙げたアベプラ側がお金の教育、数学教育について特集を組み、番組を公開していた。私自身はこの問題について考えをまとめるに至っていないが、番組の鮮度が落ちないうちに簡単にまとめる。

これまでと違い、今回は国語についての話題はなし。

また、ブログの終盤で「#教師のバトン」の話題にも多少触れるのでご注意。

 

【お金教育】ひろゆき「お金が無い人のための教育をすべき」森永卓郎フリーランスの王 株本祐己と熱論!高校で資産形成の授業は必要?お金の勉強って何をすべき?【学校】|#アベプラ

www.youtube.com

 

【天才数学者】人生に必要?算数で十分?文系でもマスト?「理論的に考える癖をつけるため」天才数学者×ひろゆきが議論!【メトロノーム】|#アベプラ

www.youtube.com

 

できれば、これらのノーカット版の閲覧をお勧めしたい。1年程度たつと公式ページからは消滅するようなので。

お金教育 https://abe.ma/3fkukDQ

数学教育 https://abe.ma/3ebThiI

 

 

さて本題。

これらの番組で私が感じたことを僭越ながら述べさせていただく。

 

 

1.お金教育について

お金に関しては、経済・財政にも詳しいゲスト(森永卓郎氏・株本祐己氏)を交えて話が展開されていた。私自身が経済問題に詳しくないので彼らの話の真偽をつかみかねるが、この特集での結論は「原理的に、役に立つお金教育は不可能」

前回の古文漢文不要論の延長で見ていた側としては、「だったら、お金教育と比較して古文漢文不要論を出すこと自体が結局ナンセンスなのでは?」と率直に思った。

 

以下詳細。

前回の記事で取り上げた古文漢文不要論の番組内での問題意識は「生活に困窮する者には、古文漢文のような実用性の見出しづらいものより、役所の行き方のような社会の生き方に直結するものを教えるべき」というものだったはずだ。そして、今回のお金教育は後者の「社会の生き方に直結するもの」の例として挙げられている(番組の冒頭もそうした導入になっている)。

しかしながら、少なくともお金の教育については「当事者の利害が絡むため、本当に役立つことを学校が教えることは原理的に困難」という趣旨の発言があった(直接の発言者は番組プロデューサー若新雄純氏)。その結論を番組側が受け入れるなら、「古文漢文の教育に実用性があるかどうかはともかく、原理的に教育困難なもののために時間を割くのは誤りである」と結論づけるほかないだろう。

番組側がそこまで考えていない、と言われればそれまでだが。

 

もっとも、この番組の結論「原理的に、役立つお金教育は不可能」自体に私は疑問を持っている。ゲストが論拠として挙げた当事者の利害関係については私もおぼろげに同意するが、抗う術は本当にないのだろうか?

そもそも、今回の議論はゲストの立ち位置からして経済サイドから見た議論であり、教育サイドでの意見がほとんど取り上げられていない印象を受ける。つまり、学校教育や現在の社会制度という制約(ゲストの言う利害関係を含む)の中、どこまでの指導が可能なのかは別途議論されてしかるべきだと考えるのだ。少なくとも、ゲストの方々が満足する水準か否かは別として、現状の中学校・高校の社会科や家庭科などでこの手の指導はなされているはずなので。

・・・以下のTweetのような致命的な問題はあるにせよ。

 

お金の教育に関しては私も知識不足だが、今後も勉強していきたい。

 

 

 

2.数学教育について

こちらの番組上の問題意識は2つ。

1つは、すでに古文漢文不要論を特集したので、ならば数学不要論もやってみよう、というもの。もう1つは、早稲田大学政治経済学部の入試科目に数学IAが追加され話題を呼んだこと。こちらではゲストに千葉逸人氏を招いて議論が交わされた。

こちらについては冒頭からひろゆき氏が「政治経済学部での学びに数学は必要。しかし、それ以外の文系分野で有用な専門知識のある人にとっては不要」と立論しているため、私としては出鼻を挫かれたまま番組が終了したな、というのが率直な感想。SNS上の感想を見る限りでも、数学不要論そのものより数学者の浮世離れ観が印象に残ったとする発信が多い印象を受けた。

こちらについては、その後の議論の中で出てきた論点が「論理的思考が重要」というありふれたものしかなく、議論というよりは雑談という印象である。論理的思考を学ぶのはどこまで有効か、論理的思考を学ぶのに数学は本当に適しているのか、という議論の余地はあったと思うし、私自身もその点については疑問に思い続けてきたからである。それこそ、昨年から取り上げている「論理国語」ではだめなのか、と。

 

 

同じAbemaの番組なら、2年前に話題になった橋下氏の番組のほうが(数学の話題としては一瞬だったが)反響があった。

times.abema.tv

こちらの番組はすでに閲覧不可になっているが、「社会の多様なニーズにこたえるために学習の選択肢を増やせ。少なくとも自分にとって、化学式や三角関数は必要のないものだった」という趣旨の発言が橋下氏からなされていたことを記憶している。

個人的には、「そもそも化学式や三角関数は必修じゃないです」という突っ込みを持ちつつも、「選択肢」という意味で当時の橋下氏の主張に賛同する立場をとる。ただし、当時のSNS上では三角関数不要論そのものにフォーカスが当たって橋下氏が批判を受けるという残念な展開を見せた。その後、橋下氏からの釈明がなされたが、橋下氏を批判する側がその釈明に耳を傾ける様子を見せないまま議論は収束したのを記憶している。

togetter.com

president.jp

なお、上2つのリンクでは理数系科目の話題だけでなく、教員免許の話題も少なからず取り上げられている。最近話題を呼んでいる「#教師のバトン」の話題が気になっている方は一度ご覧になることを勧める。

 

そして「#教師のバトン」に関する特集も別途アベプラでは取り上げられていた。長くなるのでこれ自体の感想は省略。関心ある方はご視聴を。

#教師のバトン】現役教師「閉鎖的な組織」先生たちがブラック労働をTwitterに暴露?前川喜平元文科事務次官と考える教師の働き方改革【EXIT】|#アベプラ

www.youtube.com

ノーカット版 https://abe.ma/3a2bGxc

 

 

3.今回のまとめ

以上、今回の感想を簡単にまとめると、

お金教育→「原理的に不可」としたけれどそれでいいの?(素人の感想)

数学教育→冒頭の「政経では必要」で完結。議論の余地は残るが雑談に終始。

という感じ。もっと掘り下げてほしいというのが視聴者としての私の感想だが、ブログや動画の配信を始めてから、そんな掘り下げたコンテンツ制作の苦労を痛感しているのでもどかしいところ。

 

そして、今回のブログ記事をまとめながら思ったこと。

SNS上で話題になっていることの多くは、案外昔から誰かが口にしていることなのだな、ということだ。裏を返せば、それだけこの手の話題を継続的に追っている人間が少ないということでもあるだろう。

今後も時間の許す限り、情報収集を継続していきたい。

古典必要・不要論を前進させるための論点整理 #古典 #古文 #国語教育

前回取り上げたひろゆき氏の記事(?)の内容が、アベプラという番組で動画化された。

内容としては良くも悪くも2年前のこてほんシンポと同水準であり、この議論が2年前より多くの方の目に留まった点をよしとする一方、議論の進展のなさには不満がある。

とはいえ関心のある方には必読である(できればAbemaTVの公式版も)。

【古文漢文】「要らなくないすか?」ひろゆきがぶち上げた"オワコン論争"物議に…なぜ必修課目?カリスマ古文講師&ブルガリア出身の研究者と激論【受験】【義務教育】

www.youtube.com

ノーカット版▷http://abe.ma/3bDUONa

 

この番組についてもすでにいくつかの記事がある(ただし、なぜかはてなブックマークではほぼ検索されない)ため、この動画の感想そのものをここで述べるつもりはない。私の問題意識は、自身の立場(多種多様な学問を学びたい)からこの問題を進展させるための提言のつもりである。まだまだ粗削りであるが、時間をかけすぎて時期を逃したくないため思いつく限りをまとめることにした。

 

 

なぜ古典脱必修化論は古典不要論にすり替わるのか

 まず、古典推進派が問題視する見解は、厳密には以下の2つに分類できる。
 ・古典脱必修化論:学校教育(小中高)の古典科目を必修から選択に変更せよ
 ・古典不要論:学校教育(小中高)から古典科目を必修・選択から除外せよ

 ちなみに、同じノリで古典必要論を定義するなら、以下の通り。
 ・古典必要論:学校教育(小中高)の古典科目(特に必修)を維持・推進せよ

  前者は本質的には"選択科目では残すべき"の立場なので、後者とは区別される立場にある。とはいえ、高校物理のように選択科目となった時期から履修率が大幅に減った事例もある。古典脱必修化の立場から古典推進派に異議申し立てをする時点で、推進派がそうした危機感を持っていることは意識しておいたほうがいいだろう。
 なお、古典推進派も、そうでない立場も、本来古典が必修か否かは、究極的には教科・科目間の時間の奪い合いであることを自覚しておいたほうがいい。そして、そのための折り合いをつけるためには、「古典」という科目・分野で何をどこまで教えるかについて踏み込んだ議論が必要となる。このブログ記事が部分的にでもそのための材料となれば幸いである。


・古典推進派は推進する古典の存在意義を示せているか?

 古典推進派の主張は、とかく多岐にわたる。アベプラの動画でも、2年前のシンポジウムでも、論点がころころ変わり収束する目途すらたたずに終了した。抜け・漏れはあるかもしれないが、私なりに論点を整理すると以下の3つに大別されるだろう。
 観点1:古典で日本の文化・伝統・歴史は有効に教えられるのか
 観点2:古典で現代の社会問題を解決する知見は得られるのか
 観点3:古典で現代社会を生き抜く資質・能力は育めるのか

 この3つの観点から、必修に足るだけのYesが出れば古典必修は維持できるだろう。
 しかし、現時点での私の見解は”すべてNo”である。
 その最大の理由は、日本の国語教育には次の<前提>があり、その前提を推進派があいまいにしたまま言及しているためだと考える。

前提1:

 現行の古典授業の実態は、日本の古典文法で書かれた文章(原典)の読解指導が中心。よって、諸外国の古典や明治時代以降の古典は対象外。(漢文は例外)
前提2:

 国公立大学の多くは入試問題に少なくない割合で「古典」を出題する。少なくともセンター試験(新テスト)に占める古典の割合は国語の50%。
 以下、観点1~3について言及する。

 

・観点1(文化・伝統・歴史)について
 古典教材から学ぶのは基本的にはケーススタディ(具体的・詳細だが一般性に欠ける)である。多くは執筆者の世界観から当時の時代をにおわせるものであり、中には「平家物語」のような時代をさかのぼって書かれた作品もある。ただ、ケーススタディとなるがゆえに、歴史・時代の全体像を捉えることは時間的・原理的に不可能となる。
 そのため、観点1を推すならば歴史教育や現代文(古典を含めた日本語評論)との連携が不可欠となる。
 ところが、古典の専門家から歴史教育・現代文教育をどうするという話はほとんど聞かない。教科横断が言われ始めているご時世で自分たちの専門のことばかりを語りすぎている印象がある(正確には"自身の専門外について語らなすぎ"というべきか)。歴史については教科が違うという問題もあろうが、現代文については同じ国語科なので、連携自体は難しくないはずである。
 ついでに言えば、観点1について、古典推進派は類似の諸外国の例をきちんとリサーチし、多少なりとも言及したほうがよい。この問題にすら言及せず「古典は大事」と主張するのは、古典教育についてのやる気を疑われるレベルだと私は思う。

president.jp


・観点2(問題解決の知見)について
 前提1で述べたように、国語教育の分野「古典」には、人類の叡智としての古典からみると著しい制約がある。繰り返すが、漢文を除いて諸外国の古典や明治時代以降の古典は"対象外"である。

 だから、アダム・スミスケインズも扱えないし、福沢諭吉吉田松陰も扱えない(かなり致命的)。そもそも「社会」や「経済」という概念自体西洋の学問の輸入なので、前提1のような縛りで社会問題の知見を得ようとすること自体に無理がある。

 それゆえ、問題解決の知見という意味でも現行の「古典」は非常に心もとない。実際、古典と称する知見でもって、議論の大元であるシングルマザーに対し先人の知恵を提供した古典推進派はいなかったと理解している。
 それどころか、老子の「無用の用」、松尾芭蕉の「不易流行」という長期的には有益と思われる知見もあるはずなのに、古典推進派の多くは一般論に終始している印象だ。
(さらに言えば、今回のゲストはどちらも古典文学の専門家。漢文についての言及も少なかった印象)

 私見では、私は日本という国を”他国の文化・技術を貪欲に吸収し内面化することで発展・維持してきた国”だと理解している(他国でも多少なりとそういう面はあるだろうが)。観点1のような日本固有の文化・伝統もある程度学ぶべきとは思うが、他に学ぶべきことが増え、日本経済が困窮し始めている現実がある中で「古典は大事」と言い続けることに私は違和感しかない。

 古典推進派は一般論として「人類の叡智」としての古典を解き、脱必修化論・不要論に反発するが、自身が推している「古典」の制約を正しく理解しているのかかなり疑問なのである。

  明治時代の古典(国語では現代文扱い)『学問ノススメ』を引用して、この観点の考察は打ち切ることとする。

学問とは、ただむずかしき字を知り、し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(中略)今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。

 


・観点3(資質能力)について
古典推進派の立場に最大限寄り添うなら、私はここが最大の突破口になると考える。
(もとの動画ではあまりこの観点は重視されていない印象だが)
国語という教科の枠で"国語を活用する"場面となれば、作文指導の一環として"翻訳"や"解読"が有効という面は理解する。そして「国語」という科目で国語以外の言語を扱う性質上、おそらく古典文法で書かれた文献(前提1の意味での古典)を扱うのが妥当だろう。
 ただし、その場合でも以下の4つの疑問に答えておく必要がある。
 疑問3-1:限られた時間でどこまでのスキル習得を目指すか。
 疑問3-2:”現代社会を生き抜く”という目的との因果関係をどう説明するか。
 疑問3-3:翻訳済みの文献や機械翻訳とどう両立するか。
 疑問3-4:そもそも古典学習が資質能力向上に有益なのか(エビデンスはあるか)。

 現時点で私はこの疑問について詳しく言及している余裕はないため、詳細は割愛する。
 いずれ、時間のあるときにこの詳細をブログでまとめることにしたい。

 参考:高校国語教育の改善に向けて(日本学術会議

http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t290-7.pdf

 


・最後に
 古典に関する今回の議論は、究極的には優先度の問題になる。しかしながら、優先度を議題とするなら、本来は他分野の存在意義についてもある程度具体的に言及されなければならないと考える。とりわけ、ひろゆき氏が古文漢文について言及するきっかけである"子育て支援社会保障を学校教育でどう扱うか"についてはそれ単品で言及・議論が必要なのではと思う。
 ところで、一部SNS上では古典と比較する形で「微分積分」についての話題が取り上げられていた。せっかくなので、次回のブログでは「数学教育における微分積分の有用性」を論じてみることとする。子育て支援についての言及もいずれ、少なくとも知りうる情報源くらいは出したいと思う。(おそらく、そのころにはこの手の議論は下火になっているだろうが)

 

参考:

togetter.com