ゆっくり文庫風『エジプト十字架の謎』Part1投稿あと語り #ニコニコ動画
先日、今年1月の動画『ローマ帽子の謎』の続編を投稿した。
遅ればせ投稿のお知らせ。
— ozean-schloss (@ozeanschloss) 2021年5月5日
【ゆっくり文庫風】 #エラリー・クイーン 『エジプト十字架の謎』(Part1) https://t.co/vupyxACWbz #sm38693322 #ニコニコ動画 pic.twitter.com/bVLaOCPHBs
前回は年末年始の休みを使い3日程度で完成させたが、今回は難航した。
完結を見越してシナリオを作ったから?改変が多いから?それとも…。
いずれにせよ、Part1投稿までに約4か月を要した。
昔の動画『ゆっくり科学者列伝』(計7作+α)では最長でも2ヶ月。
そのことを想うと、長編作品ミステリーを動画化する難しさを痛感させられる。
同種の動画を作成されている方、そもそも原作を作られている方々に頭が下がる。
ただ今後も「文学にドライ」的な発信は続けるだろう。
コンテンツ作成に全力投球しているからと言って、他分野に対する敬意を欠く発言が許されていいとは思わない。かつてWikipedia執筆をしたり、科学系偉人の解説動画を作成した経験から心底そう思う。
【本編1:なぜ続編を作った?】
最大の理由は、前回の『ローマ帽子の謎』の反響が意外な形であったため、そのお礼としての意味が大きい。『ローマ帽子の謎』は問題編のみの「うっかり文庫」であり、だからこその反響という面がある。犯人が気になる的なコメントも多かったが、かといって解決編を作るのは、「うっかり文庫」としての魅力を損ねることになると考えた。
ならば、続編を作り、そちらで完結編までを作成しよう、そう考えたのだ。
そして、「うっかり文庫」として『ローマ帽子の謎』を作成した時に漠然と思ったのが、”うっかり文庫では大幅な改変ができない”ということ。
「うっかり文庫」は一部のみの制作が許容される代わり、”続きは原作を読んでね”で閉めることを余儀なくされる。大幅に変更し、作品内で完結させないまま”続きは原作で”だと、もはや原作との接点のない別物となる。それは視聴者にとってはもやもやが大きすぎるし、何より原作への敬意を欠く行為だと考えるのだ。
だから今回は、負担感が大きいものの全編を作ることにした。なぜ『エジプト十字架の謎』にしたかは後述する。
【本編2:『エジプト十字架の謎』の選択理由】
理由は3つ。
・投稿者にとって、エラリー・クイーンの作品で唯一幼少期に読んだ作品
・エラリー・クイーンの作品内でも世間一般的な評価が高い作品の1つ
・動画化に当たり内容改変を余儀なくされる要素が多い
上2つのついては詳細は語らない。3つ目のみ補足する。
原作本のあらすじを読むだけでも、本作は”忠実な再現”には向いていないことがわかる。というのも、原作での殺害方法は”首を切断し、T字型の磔にする”だからだ。しかもこの殺害方法自体が結末に直結する。単純にグロテスクであるし、頭部しかないゆっくりで再現することも原理的に困難である。
ちなみに、私の動画では”TNTで爆殺され、顔の判別が不可になる”という形をとった。爆発物に”T”で始まるものを使用することで、”T”の見立ても成立する(やや専門的になるが)。宗教がらみのこの事件で爆弾を使うという設定に迷いはあったが、それを言うなら殺人事件を取り扱うこと自体が議論されてしかるべきだと思う。舞台となる1930年代アメリカについても調べ、少なくともこの頃のヨーロッパではTNTが使用されていることを確認済みである。
なお、これにともない、一部人物にTNT使用可能となるよう設定を変更した。詳細はキャスティングにも影響するためここでは省略。
完結編作成時に致命的な齟齬が出てこないことを祈る。
その他、Part1時点での主な変更点は以下。太字は後日追記項目(5/8)。
・物語開始はヤードレー教授との再会から。それ以前の物語は回想で。
・秘書ニッキー・ポーターが同行。ジューナは運転手フォックスの立場に。
・登場人物全員にフルネームあり。
・リンカーンの妹へスター、隣人のリン夫妻、その他モブが未登場。
・原作でモブ枠の執事ストーリングスが容疑者の1人に昇格。
・アロヨ関係者で登場するのはクリング、ピート老人、ルーデン巡査のみ。
・クリングに元教師という設定が追加(実はTNT関係)。
・テンプル医師が検死役を兼ねたため死体発見時に出会う。大戦経験は原作通り。
・ブラッドの死体発見時刻が翌朝から当日の深夜に変更。発見者はヤードレー教授とジューナ・フォックス(原作はフォックスとリンカーン)。殺害にTNTが使われる設定上、爆音はごまかせないゆえの変更。
・ブラッド氏殺害時のアリバイ検証はエラリー訪問前に一通り終了する。内容も原作より簡略化。実はこの辺のシナリオ調整に一番苦労した。
・アイシャム地方検事が太陽教について無知(太陽教の説明を引き出すため変更)。
・太陽教についての全裸主義設定をカット。
・クロサックの身体的特徴を左足不自由→左耳ケガ(耳あて)に変更。ちなみに耳あては1930年代アメリカでは流通していない。
・メガラ到着が2日目に変更(原作は8日目)。
・メガラの一人称が「俺」。原作日本語訳は「私」か「僕」。原作で一人称「俺」があまりに少なくバランスを取る意味と、自前のクルーザーで旅行する男にしては紳士的すぎる原作設定への個人的違和感から。
・チェッカーの推理がPart1で完結。容疑者となったジューナ救済に使用。
(原作同様に容疑者の絞り込み自体は行われる)
・ヤードレー教授別荘の家政婦として『ニッポン樫鳥の謎』のキヌメ、ジューナの保護者的立場として『フォックス家の殺人』のデイビー・フォックスが登場。
【本編3:今後について】
Part2以降の作成に邁進する。本業が忙しくなったためPart2は8月以降になる。
その関係上、Part1の続きを「おまけ」という形で流し、おまけ込みならPart1時点で犯人特定可能、という構成にしてある。本動画制作の趣旨と本業を両立しようと苦悩した結果なのでご容赦いただきたい。
ちなみに、Part2の書き出しはすでにTwitterで公開した。よろしければ。
【ゆっくり文庫風】 エラリー・クイーン 『エジプト十字架の謎』Part2 の冒頭の1分。あっさりできたのと、Part2投稿は早くても8月になるため忘れる前に投稿。
— ozean-schloss (@ozeanschloss) 2021年5月7日
雨のエフェクト失敗したけれどご容赦を。#ゆっくり文庫リスペクト pic.twitter.com/my4Mg0uuCl
【おまけ:キャスティングなど】※マニアックな言及に注意!
本作のキャスティングは以下。
【ゆっくり文庫風】エラリー・クイーン『エジプト十字架の謎』キャスティングは以下。
— ozean-schloss (@ozeanschloss) 2021年5月7日
気づけば、前作から大幅にキャスティングが変わっていた。 pic.twitter.com/AejsJ3VMjU
今回は話の展開上のメイン人物に『東方輝針城』のキャラを充てた。具体的には以下。
わかさぎ姫・・・スティーブン・メガラ
赤蛮奇・・・アンドリュー・ヴァン
今泉影狼・・・ストーリングス
九十九弁々・・・マーガレット・ブラッド
九十九八橋・・・ヘレーネ・ブラッド
鬼人正邪・・・トマス・ブラッド
少名針妙丸・・・ジューナ・フォックス
実は『ローマ帽子の謎』作成時点で、ジューナ役には針妙丸を充てるつもりでいた。原作でのジューナの立ち位置は留守番、原作のフォックスはいてもいなくてもよい(但し出番は多い)立ち位置のため、本作で両方カットしようとも考えた。
が、シナリオ作成中にジューナをフォックスのポジションに充てることを思いつき、現在の形となった。原作でフォックス(=ジューナ・フォックス)の殺人容疑は本編中盤まで引っ張られるが、本作ではチェッカーの推理を流用してPart1であっさり解決させることにした。
かくして『東方輝針城』総出演が実現。あとのキャラはそんなに迷わず起用。
なお、東方に詳しい方ならば、フォックスという名称で八雲藍を連想することを見越し、『フォックス家の殺人』のデイビー・フォックス役として登場させた。ジューナがジューナ・フォックスとなったことに違和感を抱く視聴者がどれだけいるかわからないが。
その他の登場人物の起用イメージはこんな感じ。
警察関係者(アイシャム、ヴォーン、テンプル)・・・三月精
太陽教関係者(ハラーフト、ローメン、クロサック)・・・神霊廟
アロヨ関係者(クリング、ピート老人、ルーデル巡査)・・・命蓮寺
ただし、クリング役の紅美鈴は『東方紅魔郷』、ルーデル巡査役のきょうこ(幽谷響子)は『東方神霊廟』のキャラ。クリング役にはのちの話の展開上”赤毛の東方キャラ”が望ましかったが、命蓮寺関係に赤い髪のキャラはいなかった。(5/8追記)
なお、この起用イメージは、ハラーフト役の物部布都、ピート老人役の雲居一輪が個人的なはまり役でこうなった。今思うとクロサックも割とはまり役。ちなみにハラーフトの名は翻訳によってはハラークト、ホルアクティと呼ばれることもある。
ちなみに、警察関係者に三月精を起用した理由はこの動画の影響。
『エジプト十字架の謎』と別の形で”T”も登場する。
最後に、ヤードレー教授役は八雲紫一択だった。私の中でヤードレー教授は”正義のモリアーティ”で、本家ゆっくり文庫で八雲紫を充てているので。
話題の多くは、案外昔から誰かが口にしている #アベプラ #数学教育 #教師のバトン
ブログ投稿が1ヶ月以上空いた。
この間、前回の記事で挙げたアベプラ側がお金の教育、数学教育について特集を組み、番組を公開していた。私自身はこの問題について考えをまとめるに至っていないが、番組の鮮度が落ちないうちに簡単にまとめる。
これまでと違い、今回は国語についての話題はなし。
また、ブログの終盤で「#教師のバトン」の話題にも多少触れるのでご注意。
【お金教育】ひろゆき「お金が無い人のための教育をすべき」森永卓郎&フリーランスの王 株本祐己と熱論!高校で資産形成の授業は必要?お金の勉強って何をすべき?【学校】|#アベプラ
【天才数学者】人生に必要?算数で十分?文系でもマスト?「理論的に考える癖をつけるため」天才数学者×ひろゆきが議論!【メトロノーム】|#アベプラ
できれば、これらのノーカット版の閲覧をお勧めしたい。1年程度たつと公式ページからは消滅するようなので。
さて本題。
これらの番組で私が感じたことを僭越ながら述べさせていただく。
1.お金教育について
お金に関しては、経済・財政にも詳しいゲスト(森永卓郎氏・株本祐己氏)を交えて話が展開されていた。私自身が経済問題に詳しくないので彼らの話の真偽をつかみかねるが、この特集での結論は「原理的に、役に立つお金教育は不可能」。
前回の古文漢文不要論の延長で見ていた側としては、「だったら、お金教育と比較して古文漢文不要論を出すこと自体が結局ナンセンスなのでは?」と率直に思った。
以下詳細。
前回の記事で取り上げた古文漢文不要論の番組内での問題意識は「生活に困窮する者には、古文漢文のような実用性の見出しづらいものより、役所の行き方のような社会の生き方に直結するものを教えるべき」というものだったはずだ。そして、今回のお金教育は後者の「社会の生き方に直結するもの」の例として挙げられている(番組の冒頭もそうした導入になっている)。
しかしながら、少なくともお金の教育については「当事者の利害が絡むため、本当に役立つことを学校が教えることは原理的に困難」という趣旨の発言があった(直接の発言者は番組プロデューサー若新雄純氏)。その結論を番組側が受け入れるなら、「古文漢文の教育に実用性があるかどうかはともかく、原理的に教育困難なもののために時間を割くのは誤りである」と結論づけるほかないだろう。
番組側がそこまで考えていない、と言われればそれまでだが。
もっとも、この番組の結論「原理的に、役立つお金教育は不可能」自体に私は疑問を持っている。ゲストが論拠として挙げた当事者の利害関係については私もおぼろげに同意するが、抗う術は本当にないのだろうか?
そもそも、今回の議論はゲストの立ち位置からして経済サイドから見た議論であり、教育サイドでの意見がほとんど取り上げられていない印象を受ける。つまり、学校教育や現在の社会制度という制約(ゲストの言う利害関係を含む)の中、どこまでの指導が可能なのかは別途議論されてしかるべきだと考えるのだ。少なくとも、ゲストの方々が満足する水準か否かは別として、現状の中学校・高校の社会科や家庭科などでこの手の指導はなされているはずなので。
・・・以下のTweetのような致命的な問題はあるにせよ。
社会科の教員免許をとるには経済学と社会学はどっちか1つとればOK。両方とることもできるけれど、大学時代の経験から言って経済学を避ける社会科教師予備軍が多し。公民分野の1/4は経済なのに…。
— ozean-schloss (@ozeanschloss) 2010年4月24日
お金の教育に関しては私も知識不足だが、今後も勉強していきたい。
2.数学教育について
こちらの番組上の問題意識は2つ。
1つは、すでに古文漢文不要論を特集したので、ならば数学不要論もやってみよう、というもの。もう1つは、早稲田大学政治経済学部の入試科目に数学IAが追加され話題を呼んだこと。こちらではゲストに千葉逸人氏を招いて議論が交わされた。
こちらについては冒頭からひろゆき氏が「政治経済学部での学びに数学は必要。しかし、それ以外の文系分野で有用な専門知識のある人にとっては不要」と立論しているため、私としては出鼻を挫かれたまま番組が終了したな、というのが率直な感想。SNS上の感想を見る限りでも、数学不要論そのものより数学者の浮世離れ観が印象に残ったとする発信が多い印象を受けた。
こちらについては、その後の議論の中で出てきた論点が「論理的思考が重要」というありふれたものしかなく、議論というよりは雑談という印象である。論理的思考を学ぶのはどこまで有効か、論理的思考を学ぶのに数学は本当に適しているのか、という議論の余地はあったと思うし、私自身もその点については疑問に思い続けてきたからである。それこそ、昨年から取り上げている「論理国語」ではだめなのか、と。
同じAbemaの番組なら、2年前に話題になった橋下氏の番組のほうが(数学の話題としては一瞬だったが)反響があった。
こちらの番組はすでに閲覧不可になっているが、「社会の多様なニーズにこたえるために学習の選択肢を増やせ。少なくとも自分にとって、化学式や三角関数は必要のないものだった」という趣旨の発言が橋下氏からなされていたことを記憶している。
個人的には、「そもそも化学式や三角関数は必修じゃないです」という突っ込みを持ちつつも、「選択肢」という意味で当時の橋下氏の主張に賛同する立場をとる。ただし、当時のSNS上では三角関数不要論そのものにフォーカスが当たって橋下氏が批判を受けるという残念な展開を見せた。その後、橋下氏からの釈明がなされたが、橋下氏を批判する側がその釈明に耳を傾ける様子を見せないまま議論は収束したのを記憶している。
なお、上2つのリンクでは理数系科目の話題だけでなく、教員免許の話題も少なからず取り上げられている。最近話題を呼んでいる「#教師のバトン」の話題が気になっている方は一度ご覧になることを勧める。
そして「#教師のバトン」に関する特集も別途アベプラでは取り上げられていた。長くなるのでこれ自体の感想は省略。関心ある方はご視聴を。
【#教師のバトン】現役教師「閉鎖的な組織」先生たちがブラック労働をTwitterに暴露?前川喜平元文科事務次官と考える教師の働き方改革【EXIT】|#アベプラ
ノーカット版 https://abe.ma/3a2bGxc
3.今回のまとめ
以上、今回の感想を簡単にまとめると、
お金教育→「原理的に不可」としたけれどそれでいいの?(素人の感想)
数学教育→冒頭の「政経では必要」で完結。議論の余地は残るが雑談に終始。
という感じ。もっと掘り下げてほしいというのが視聴者としての私の感想だが、ブログや動画の配信を始めてから、そんな掘り下げたコンテンツ制作の苦労を痛感しているのでもどかしいところ。
そして、今回のブログ記事をまとめながら思ったこと。
SNS上で話題になっていることの多くは、案外昔から誰かが口にしていることなのだな、ということだ。裏を返せば、それだけこの手の話題を継続的に追っている人間が少ないということでもあるだろう。
今後も時間の許す限り、情報収集を継続していきたい。
古典必要・不要論を前進させるための論点整理 #古典 #古文 #国語教育
前回取り上げたひろゆき氏の記事(?)の内容が、アベプラという番組で動画化された。
内容としては良くも悪くも2年前のこてほんシンポと同水準であり、この議論が2年前より多くの方の目に留まった点をよしとする一方、議論の進展のなさには不満がある。
とはいえ関心のある方には必読である(できればAbemaTVの公式版も)。
【古文漢文】「要らなくないすか?」ひろゆきがぶち上げた"オワコン論争"物議に…なぜ必修課目?カリスマ古文講師&ブルガリア出身の研究者と激論【受験】【義務教育】
ノーカット版▷http://abe.ma/3bDUONa
この番組についてもすでにいくつかの記事がある(ただし、なぜかはてなブックマークではほぼ検索されない)ため、この動画の感想そのものをここで述べるつもりはない。私の問題意識は、自身の立場(多種多様な学問を学びたい)からこの問題を進展させるための提言のつもりである。まだまだ粗削りであるが、時間をかけすぎて時期を逃したくないため思いつく限りをまとめることにした。
なぜ古典脱必修化論は古典不要論にすり替わるのか
まず、古典推進派が問題視する見解は、厳密には以下の2つに分類できる。
・古典脱必修化論:学校教育(小中高)の古典科目を必修から選択に変更せよ
・古典不要論:学校教育(小中高)から古典科目を必修・選択から除外せよ
ちなみに、同じノリで古典必要論を定義するなら、以下の通り。
・古典必要論:学校教育(小中高)の古典科目(特に必修)を維持・推進せよ
前者は本質的には"選択科目では残すべき"の立場なので、後者とは区別される立場にある。とはいえ、高校物理のように選択科目となった時期から履修率が大幅に減った事例もある。古典脱必修化の立場から古典推進派に異議申し立てをする時点で、推進派がそうした危機感を持っていることは意識しておいたほうがいいだろう。
なお、古典推進派も、そうでない立場も、本来古典が必修か否かは、究極的には教科・科目間の時間の奪い合いであることを自覚しておいたほうがいい。そして、そのための折り合いをつけるためには、「古典」という科目・分野で何をどこまで教えるかについて踏み込んだ議論が必要となる。このブログ記事が部分的にでもそのための材料となれば幸いである。
・古典推進派は推進する古典の存在意義を示せているか?
古典推進派の主張は、とかく多岐にわたる。アベプラの動画でも、2年前のシンポジウムでも、論点がころころ変わり収束する目途すらたたずに終了した。抜け・漏れはあるかもしれないが、私なりに論点を整理すると以下の3つに大別されるだろう。
観点1:古典で日本の文化・伝統・歴史は有効に教えられるのか
観点2:古典で現代の社会問題を解決する知見は得られるのか
観点3:古典で現代社会を生き抜く資質・能力は育めるのか
この3つの観点から、必修に足るだけのYesが出れば古典必修は維持できるだろう。
しかし、現時点での私の見解は”すべてNo”である。
その最大の理由は、日本の国語教育には次の<前提>があり、その前提を推進派があいまいにしたまま言及しているためだと考える。
前提1:
現行の古典授業の実態は、日本の古典文法で書かれた文章(原典)の読解指導が中心。よって、諸外国の古典や明治時代以降の古典は対象外。(漢文は例外)
前提2:
国公立大学の多くは入試問題に少なくない割合で「古典」を出題する。少なくともセンター試験(新テスト)に占める古典の割合は国語の50%。
以下、観点1~3について言及する。
・観点1(文化・伝統・歴史)について
古典教材から学ぶのは基本的にはケーススタディ(具体的・詳細だが一般性に欠ける)である。多くは執筆者の世界観から当時の時代をにおわせるものであり、中には「平家物語」のような時代をさかのぼって書かれた作品もある。ただ、ケーススタディとなるがゆえに、歴史・時代の全体像を捉えることは時間的・原理的に不可能となる。
そのため、観点1を推すならば歴史教育や現代文(古典を含めた日本語評論)との連携が不可欠となる。
ところが、古典の専門家から歴史教育・現代文教育をどうするという話はほとんど聞かない。教科横断が言われ始めているご時世で自分たちの専門のことばかりを語りすぎている印象がある(正確には"自身の専門外について語らなすぎ"というべきか)。歴史については教科が違うという問題もあろうが、現代文については同じ国語科なので、連携自体は難しくないはずである。
ついでに言えば、観点1について、古典推進派は類似の諸外国の例をきちんとリサーチし、多少なりとも言及したほうがよい。この問題にすら言及せず「古典は大事」と主張するのは、古典教育についてのやる気を疑われるレベルだと私は思う。
・観点2(問題解決の知見)について
前提1で述べたように、国語教育の分野「古典」には、人類の叡智としての古典からみると著しい制約がある。繰り返すが、漢文を除いて諸外国の古典や明治時代以降の古典は"対象外"である。
だから、アダム・スミスもケインズも扱えないし、福沢諭吉も吉田松陰も扱えない(かなり致命的)。そもそも「社会」や「経済」という概念自体西洋の学問の輸入なので、前提1のような縛りで社会問題の知見を得ようとすること自体に無理がある。
それゆえ、問題解決の知見という意味でも現行の「古典」は非常に心もとない。実際、古典と称する知見でもって、議論の大元であるシングルマザーに対し先人の知恵を提供した古典推進派はいなかったと理解している。
それどころか、老子の「無用の用」、松尾芭蕉の「不易流行」という長期的には有益と思われる知見もあるはずなのに、古典推進派の多くは一般論に終始している印象だ。
(さらに言えば、今回のゲストはどちらも古典文学の専門家。漢文についての言及も少なかった印象)
私見では、私は日本という国を”他国の文化・技術を貪欲に吸収し内面化することで発展・維持してきた国”だと理解している(他国でも多少なりとそういう面はあるだろうが)。観点1のような日本固有の文化・伝統もある程度学ぶべきとは思うが、他に学ぶべきことが増え、日本経済が困窮し始めている現実がある中で「古典は大事」と言い続けることに私は違和感しかない。
古典推進派は一般論として「人類の叡智」としての古典を解き、脱必修化論・不要論に反発するが、自身が推している「古典」の制約を正しく理解しているのかかなり疑問なのである。
理由は簡単で、国語教師にとって「古典」とは「日本の古典的文法で書かれた文章」であり、人類の叡智としての古典とは相当に食い違っているためである(共通部分はあるが)。
— ozean-schloss (@ozeanschloss) 2021年3月1日
古典推進派に問いたい。貴方達は後者の意味で古典の意義を語りながら、前者の古典だけを推してはいませんか?
明治時代の古典(国語では現代文扱い)『学問ノススメ』を引用して、この観点の考察は打ち切ることとする。
学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。(中略)今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。
・観点3(資質能力)について
古典推進派の立場に最大限寄り添うなら、私はここが最大の突破口になると考える。
(もとの動画ではあまりこの観点は重視されていない印象だが)
国語という教科の枠で"国語を活用する"場面となれば、作文指導の一環として"翻訳"や"解読"が有効という面は理解する。そして「国語」という科目で国語以外の言語を扱う性質上、おそらく古典文法で書かれた文献(前提1の意味での古典)を扱うのが妥当だろう。
ただし、その場合でも以下の4つの疑問に答えておく必要がある。
疑問3-1:限られた時間でどこまでのスキル習得を目指すか。
疑問3-2:”現代社会を生き抜く”という目的との因果関係をどう説明するか。
疑問3-3:翻訳済みの文献や機械翻訳とどう両立するか。
疑問3-4:そもそも古典学習が資質能力向上に有益なのか(エビデンスはあるか)。
現時点で私はこの疑問について詳しく言及している余裕はないため、詳細は割愛する。
いずれ、時間のあるときにこの詳細をブログでまとめることにしたい。
参考:高校国語教育の改善に向けて(日本学術会議)
http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-24-t290-7.pdf
・最後に
古典に関する今回の議論は、究極的には優先度の問題になる。しかしながら、優先度を議題とするなら、本来は他分野の存在意義についてもある程度具体的に言及されなければならないと考える。とりわけ、ひろゆき氏が古文漢文について言及するきっかけである"子育て支援、社会保障を学校教育でどう扱うか"についてはそれ単品で言及・議論が必要なのではと思う。
ところで、一部SNS上では古典と比較する形で「微分積分」についての話題が取り上げられていた。せっかくなので、次回のブログでは「数学教育における微分積分の有用性」を論じてみることとする。子育て支援についての言及もいずれ、少なくとも知りうる情報源くらいは出したいと思う。(おそらく、そのころにはこの手の議論は下火になっているだろうが)
参考:
ひろゆき氏の古文漢文不要論に、国語教育関係者は何を思うか #国語教育 #こてほん
久々に国語教育に話題に触れる。
今回は主に古文漢文の話題。
2月中旬より、こちらの記事が話題になっているようだ。
記事の執筆者はひろゆき氏。
古文や漢文よりも「困ったときの役所の使い方」を義務教育で教えるべき
(Twitter上で話題になっているのはYahooの転載記事であるが、Yahooの記事は一定期間たつと消えることが多いため、転載元のSPAの記事を挙げる)
本ブログの立場を述べる前に、論点が拡散しないよう前提条件を確認する。
・記事の発端は、シングルマザーの子育て不安への悩み(養子に出すことを検討するレベル)にひろゆき氏が回答を試みたこと。
・記事の趣旨を私なりに解釈すると、「学校(≒義務教育)は、役所に子育て支援相談に行くなど、生活に役立つことを教えていない。子育て支援より教師の雇用を優先している」である。
・ひろゆき氏が優先度が低いと考える教育内容の例として、記事では古文漢文が取り上げられている。
以上3点を踏まえ、本ブログの見解を述べたい。
”ほぼ同意”である。
国語教育の関係者ならば、古文漢文の必要性を堂々と疑問視するひろゆき氏の見解に何かしら意見を言いたくなることだろう。が、今回伝えるべき本当の相手は、生活に困窮し、子育てに深く悩んでいるシングルマザーであることを忘れてはいけない。さすがに、彼女のような立場の者に「子育てよりも古文漢文を」と説く教育関係者はいないと信じたい。
あるいは、彼女の当面の悩みに寄り添いつつ、長期的な視点から古文漢文の意義を説こうとする方もいるかもしれない。その場合、伝え方は「日本語・日本文化のルーツ」「現代日本語力の強化」「人文科学系の教養の幅を広げる」などいくつかの観点があるだろう。
ただし、その場合でも他の科目・項目との優先順位を意識しながら言及しなければならないだろう。本稿では詳しく立ち入らないが、少なくとも高等学校で古文漢文の授業を「必修」とすべき積極的理由を私は見いだせない。古文漢文の意義自体は私もある程度理解するが、「選択でよい」「原文に触れる必要はない」「小中学校でも学んでいる」と言われれば返す言葉が思いつかない。
この件で思い出すのは、2018年に東京で行われた古典シンポジウムである。
手軽に内容を知りたい方は、こちらのブログが参考になる。
「古典は本当に必要なのか」討論会へ行ってきた
このシンポジウムの内容は、のちに書籍化されている。
このシンポジウムは、高校の古典教育への危機感(古典教育の存在意義を疑問視する多くの声)から、反対意見に耳を傾けつつ古典教育の意義を考え直すものであった。詳細はブログか書籍をご覧になっていただきたいが、賛成派・反対派の意見がかみ合っておらず、コンセプト通りには議論が深まらずに終わった印象がある。
個人的に不可解なのは、今回のひろゆき氏の記事の賛否を述べる際、観測範囲では誰一人このシンポジウム(あるいは書籍)について言及していないということ。この記事を書いたひろゆき氏もシンポジウムの存在を把握しているようには感じないし、シンポジウム関係者はひろゆき氏の見解について何も触れようとしない(無視しているのか、把握していないのかは不明)。シンポジウム内容がいかに浸透していないかが浮き彫りになったと私は見るが、本稿の読者はどう見るだろうか?
最後に、古文漢文とは別の切り口でひろゆき氏の見解にコメントしておきたい。
彼への批判/賛同というよりは、この話題を掘り下げるための私見である。
それは、そもそも、学校教育で「役所の行き方」のような指導は”有効”なのか?という疑問である。(できる/できないではないことに注意されたし)
断っておくと、私は「役所の行き方」のような実用的な内容は基本的には教えるべきという立場である。個々の教師にもそれくらいの知識は持ち合わせていると理解するし、”教えろ”という方針が出れば教えることはできるだろう。
ただ、それを学校で教えるのは”有効”なのか?。
おそらく、学校単位、自治体単位で方針を出すことはできるだろう。
だが、保護者は、社会は、そこを優先的に尽力した学校・社会を好意的に評価するだろうか?
私の意見はNoである。
社会が評価するのは、究極的には進学・進路実績か、いじめ等の学校対応くらいではないか。
近年話題となっている、アクティブラーニングやプログラミング、SDGsにLGBT教育なども、最終的にはその文脈につながらなければ好意的には評価されることはないはずである(だから指導要領改訂や入試制度改革が話題になる)。子育て支援に時間を割き、受験やいじめ対策がなおざりにでもなれば、その学校・教師への評価は十中八九マイナスに傾くだろう。
そして、今回のような事案に対し、国語教員にできるのは、せいぜい多量の文章を読み、考え、伝えるというリテラシー的な部分に限られるのではないか(つまり、論理国語的な授業?)。そして、今回のひろゆき氏の見解に賛否を唱える場合、そうしたリテラシー部分と古文漢文指導との関係にフォーカスした議論をするのがもっとも生産的なように思われるが、いかがだろうか?
もっとも、後半部分(特に社会が学校をどう評価するか)は私の私見であり、関係者が「そんなことはない」といえば棄却されるレベルのものである。個人的には、関係者からは積極的に「そんなことはない」と発信していただきたいとすら願う。
【おまけ】
今月末、今回紹介した本の続編が出るようである。
【追記】
公開1時間でタイトル変更。旧題は「古文漢文VS役所の使い方論争に、国語教育関係者は何を思うか」。タイトルに「不要」や執筆者の名前がないと、この問題に関心をもつ人の検索にひっかからないことに気づき変更する。個人的に、人名はタイトルに持ってきたくはないのだが・・・。
うっかり文庫版『ローマ帽子の謎』#ニコニコ動画
年末年始、外出などができないことから2年ぶりに動画投稿に手を出した。
それがうっかり文庫版『ローマ帽子の謎』。
※原作の問題編のみを15分程度にまとめたもの。こういう、著作物の一部内容を動画化したものはニコニコ動画にて「うっかり文庫」の呼称で投稿されており、本作はそれに倣ったものである。
本稿では、動画投稿の経緯について、これまでのブログ発信から逸脱しない範囲で現時点での考えをまとめておく。
本来なら、他の動画投稿者様のような原作や素材(主に東方project)に関する考えを出すべきだろうが、これまでのブログ読者にとっては唐突すぎるだろう。その手の内容は本編では触れず、終盤の【おまけ:制作メイキング】に記した。気になる方はそちらを参照されたい。
【本編1:動画投稿の背景】
ブログで国語の問題に言及してから、実は私はエラリー・クイーンの小説を何冊か読み始めていた。年末年始も同様であったが、年末年始で外出などができないからか、家にこもるうちに読み込んだ内容を吐き出したい衝動にかられたのが直接のきっかけである。長期的にはやるべきことがいくつもあるため、抑圧するよりも、時間があるうちに制作したほうがよいと考えたのだ。
そして、時々視聴していたニコニコ動画を参考に素材を集め、シナリオを書き、完成させたのがうっかり文庫版『ローマ帽子の謎』である。3日程度の粗削りであるが、そこそこのものが完成した(良作になったか否かはなんとも、である)。
過去の動画作品と傾向が異なるのは、同様の作品の傾向(とくにゆっくり文庫系)のスタイルに合わせることで、他のうっかり文庫作品との違和感を減らしたかったことが大きい。旧動画のオマージュも考えたが、結局見送ることに。
【本編2:なぜエラリー・クイーンか】
直接には、エラリー・クイーンを取り上げた作品がニコニコ動画や他の動画サイトをみてもほとんどなかったことが大きい。著作権的には微妙なところであるが、この件で報酬を得る予定はないため、ある程度は許容されるであろうと判断したのだ。
もっとも、エラリー・クイーンに手を出した経緯は、これまでのブログ発信とも無関係ではない。国語教育の問題、とりわけ「論理と文学の二分」の問題を考える中で、橋渡しの可能性を推理小説に求めた点が大きい。
探偵エラリー・クイーンは、数ある推理小説の人物の中でも「推論」を重んじる、というのが私の理解である。裏を返せば、事実や証拠、人間の心理といった側面を推理の際にやや軽視する傾向がみられる。本動画の原作『ローマ帽子の謎』でも、犯人を特定するためには”被害者の帽子の紛失”という事実にフォーカスした推論が必須となる。被害者を毒殺するだけならば、動機面でもアリバイ面でも犯行が成立しそうな人物は何人もいるのだから。
併せて、犯人特定には一見すると犯行不可能に見える状況・証言にダウトをつきつける必要がある。あまり深入りするとネタバレになるが、
・死体発見直後に帽子を持ちだせたか?
→死体発見直後に警察関係者の1人がその場に居合わせており、かつ帽子紛失の事実に違和感を唱えていない。つまり、死体発見段階で帽子はすでに消えていたため、死体発見直後に帽子を持ちだした可能性は消滅する(刑事が犯人なら別だが)。
・被害者と接触した男に帽子の持ち出しは不可能か。
→実は可能。受付嬢の証言で「S席(ドレスコート必須)の客で帽子を2つ以上持ち出した人物はいない」とあるが、帽子をコンパクトにまとめることが不可能であることが暗黙の前提となっている。実は、そのような帽子の存在が、作中で”さりげなく”言及されており、それに気づけば容疑者を大幅に絞り込むことができる。
・ジュース瓶に事前に毒を仕込めたか?
→ジュースの在庫切れは想定外。作品内で被害者のジュースの好みや在庫の保管状況については言及されていないため、それを想定した推理自体に無理がある。これについてはさりげなく言及された箇所もない。それどころか、ジュース売りが直接被害者に商品を届けたために、ジュース自体がすり替えられた可能性を消滅させる結果となっている。
探偵クイーンはこうした推理傾向を持つため、文学作品で論理について考える、という題材としてはかなり面白いのではと感じた。ただ、国語の授業教材としては『ローマ帽子の謎』は長すぎる。クイーンの短編は未読であるが、短編に挑戦したほうがよいのかもしれない(もっとも、殺人事件を扱う小説が国語の授業にふさわしいかという問題もあるが)。
【本編3:ブログ主は文学に無関心か?】
私はこのブログで度々”文学についてドライ”ということを公言してきた。
過去の私のブログを読まれた方は、もしかしたら”ozean-schlossは文学系の書物をほとんど読まない”と思われているかもしれない。
概ね正しいし、私の読書における文学の割合はせいぜい3%である。
ただ、”3%程度”であって、ゼロではない。
(2020年はクイーンの作品だけで10冊近く読んでいるためもう少し多くなるだろう)
そして、”文学についてドライ”という私のスタンスは、
・読書における文学作品の比重の低さ(文学以外で読みたい本が圧倒的に多い)
以外に、
・文学作品の登場人物・状況設定に感情移入しない
という面がある。
この点については賛否がわかれるところであろうが、私が文学作品を読む際に念頭に入れているのは、主として作者・作品の世界観や文体をつかむことにある。登場人物の考え方や行動を参考にすることのゼロではないが、経験上、特定の著者に感情移入しすぎると、それに合わない考えの著作を読むのが苦しくなる。そうした読書観があってもよいが、少なくとも多種多様な本(文学以外を含む)に接したいと考える私の読書観とは相いれないと考える。
【本編4:今後について】
今回の動画投稿の際、ブログやTwitterなどを分割すべきかどうかかなり迷った。実のところ、今回の動画では独自の考察動画やファンアートをいただく結果となった(これ自体は大変うれしい)が、こうした反響をくださる方々と私の読書観・作品観が彼らと相いれるのかどうか、特に彼らの定期的な投稿意欲に水を差さないか不安で仕方ないのだ。
#ファンアート #うっかり文庫 #エラリー・クイーン #比那名居天子
— 大江戸ナオ (@ooedo_nao) 2021年1月13日
ozean-schlossさんのうっかり文庫
エラリー・クイーン「ローマ帽子の謎」 pic.twitter.com/PoHiBDSMsj
とはいえ、今回のような動画投稿を今後も行うかどうかはわからないし、そもそも私は休眠中であるがもともと動画投稿者だったのだ。今後、不都合が出てきたら動画投稿者としての私と、国語を含めた学問知に関する発信をする私を分割するかもしれない。
なお、うっかり文庫版『ローマ帽子の謎』は、投稿段階で”解答編は制作しない”と明言してある。思わぬ反響があったため、解答編の制作についても考えたが、今回の反響は今回のようなスタンスがあったからこそだと思っている(つまり、今後解答編を作成すること自体が本動画の価値を損ねる可能性がある)。なので、『ローマ帽子の謎』の結末が知りたい方は原作を読んでいただくか、他の動画投稿者が解決編を投稿するのを待っていただきたい。
もし、私自身が再び動画投稿をするなら、別の内容の動画になるだろう。
エラリー・クイーンか、他の作品になるかはわからないが。
なお、本ブログでは今後も、動画投稿とは無関係に不定期な発信を続ける予定である。特に、文学愛・創作愛を期待される方はご注意いただきたい。
【おまけ:制作メイキング】※マニアックな言及に注意!
ここからは、動画制作の背景(素材選定など)の話をする。
まず、キャスティングについて。
他者様の動画作成方針に従い、今回はきつね式ゆっくり(元ネタ:東方project)を使用。キャスティングについては
・主要人物については他のミステリー作品と重複させない
が絶対条件だった。最終的に主役はてんこ(比那名居天子)を起用。その理由は主人公エラリー・クイーンの性格設定との乖離が小さいのもあるが、最大の決め手は動画後半に出てくるBGM「天衣無縫」の使用を考えたことにある。エラリー・クイーンはメディア化の少ない作品なのでBGM素材が少ないのだ。
そしてこのBGMを使用するなら、主人公役はてんこ一択になる。
ただ、主要人物のキャスティングは少々悩まされた。てんこは”天人”(ただし不良気味)という設定があるため、彼女と対等以上の関係になる人物でなければ父親かつNY警視のリチャード・クイーン役に当てはまらないのだ。最終的には地獄の閻魔えいき(四季映姫・ヤマザナドゥ)を起用し、クイーン警視の部下トマス・ヴェリー役にえいきの部下こまち(小野塚小町)を起用する。本作のヴェリーの台詞回しが原作とかなり違うが、練り直す手間を惜しんでそのまま投稿した。
なお、てんこの従者ポジションにはいく(永江衣玖)がいるが、彼女は原作未登場の秘書ニッキー・ポーター役として序盤と終盤に登場してもらうことに。観測範囲では、原作ファンの中にはニッキーの存在を快く思わない人もいる(何より、正規のエラリー・クイーン作品でニッキーの出番は2回しかない)ため、続編が出た時の彼女の扱いについては要検討である。
その後のキャスティングは制作過程で何となく決定。
原作では登場人物が30人程度いるが、最終的に15人(ニッキー除く)まで減らす。
原作で登場し、動画で未登場の人物は以下。
・ジューナ:クイーン家の使用人。準レギュラー。
・サミュエル・プラウティ:検死担当の医師。準レギュラー。
・サディウス・ジョーンズ:毒物学者。テトラエチル鉛の分析を行う。
・ヘンリー・サンプソン:地方検事。法的な立場で警察を支援。準レギュラー。
・スタッカード医師:観客の中にいた医師。警察到着までの検死を担当。
・ハリー・二―ルソン:劇場の宣伝マン。警察への連絡やチケットの確認を担当。
・ゴードン・デイヴィス:劇場のプロデューサー。空気。リストに名前なし。
・フィリップス夫人:劇場の衣装担当。エラリーを楽屋に案内する。
・エリナー・リビー:劇場のアイスクリーム売り。ジェスのアリバイを補完。リストに名前なし。
・フランクリン・アイヴス・ポープ:大富豪。令嬢の父親。
・ルシール・ホートン:劇団女優。空気。
・ヒルダ・オレンジ:劇団女優。令嬢と友人関係。でも空気。
・アンジェラ・ラッソー:被害者の愛人。被害者の足取りを証言。
・オスカー・ルーイン:被害者の事務所の事務長。
・ドイル:事件発生時にその場に居合わせた警官。
・その他、警察関係者多数。
事件関係者を絞ったところで残りの関係者をキャスティングする。
もちろん、犯人は以下の人物の中にいる(そして原作通り)。
・被害者モンティ・フィールドは帽子の存在が必須。まりさ(霧雨魔理沙)一択。
・ローマ劇場=紅魔館に伴い、支配人ルイス・パンザーはれみりあ(レミリア・スカーレット)で確定。原作では要所要所で呼び出しを受ける忙しい人物。本作では劇場に詳しい設定を活かし、原作未登場の衣装役を兼ねる。なお、後半のエラリーとの会話は原作にはなく、犯人確定後にクイーン警視が部下に聞かせた内容である(原作では革新まで触れている)。原作では劇場復帰後に劇場内を再調査しているため、それを防ぐためのIF設定である。証言・アリバイなどを大幅にカットしたため、代わりに本編で「犯人ではない」とエラリーに明言させた。
・劇場関係者はなるべくれみりあの側近と考えたが、最終的にそのままなのは受付嬢マッジ役のさくや(十六夜咲夜)くらい。重要証言者のジュース売りは当初チルノだったが、キャラが合わなさ過ぎたためりぐる(リグル・ナイトバグ)に変更。宣伝役ニールソン役にめーりん(紅美鈴)を予定したが最終的に存在ごとカット。ぱちゅりー(パチュリー・ノーレッジ)は知識キャラなので当初から弁護士モーガン役に。ふらん(フランドール・スカーレット)に至っては原作のあぶなっかしい設定から被害者の用心棒チャールズ・マイクル役となる。
・劇団関係者および令嬢フランシス・アイヴス・ポープは配置に悩んだ。最終的に令嬢役をゆゆこ(西行寺幽々子)、恋人の俳優スティーブン・バリー役をようむ(魂魄妖夢)として残りの役を配置する。彼女らは終盤で重要なポジションになるが、原作の結末を考えた時にこの配置が良いのかどうかは悩みどころ。他の動画を見る限り、ゆゆことようむが恋人関係という動画は少ない印象。
・原作ではバリー以外の俳優が軒並み空気。貫禄を出すため、主演男優役はきめえ丸(射命丸文?)、主演女優はさなえ(東風谷早苗)とした。バリーも含め、作中の舞台での証言は原作では警察の捜査によるもの。”劇団の先輩”の存在は本作の独自設定。
・最後まで悩んだのがれいむ(博麗霊夢)のポジション。消去法で小悪党ジョニー・カザネッリ役となる。原作では”牧師”の異名を持つ人物で、クイーン警視に叱り飛ばされてからはかなり下手に出ているが、れいむが担当になったことで妙な貫禄が出てしまった。
その他、シナリオも大幅に短縮したが以下略。不明な点があればTwitterのDMでお尋ねを。
”「文学」は心を豊かにする”についての一考察【追記あり】 #国語教育
【2021.1.4追記】
この記事の本旨は、基本的に国語教育関係者の発信内容を焦点にあてたものである。
端的に言えば、関係者の「文学は大事」的な発信を問題視する内容である。
よって、この記事で国語授業の”内容”には踏み込んでいない。
見てくださった教員関係者からご指摘いただいたので念のため。
【ここから本編】
はじめに。
私がブログやSNS(Twitter)で国語の問題について発信を始めたのは2020年8月である。
そもそも、私がこのブログを立ち上げたのは、ネット上の知見をより多角的に伝えることにあった。
2020年末の現在、インターネット上には数多くのコンテンツがあるが、よ~く探してみると、”なんでもある”とはいいがたいのが現状なのだ。
例えば、科学史上の大論争を引き起こした『二つの文化と科学革命』の著者C.P.スノーのWikipedia記事は、2008年に私が執筆するまで存在していなかった。「〇〇教育」の記事も、私が編集するまではまったく統一感がなく、内容も貧しかった。また、ガリレオやニュートンのような科学系の偉人を解説する動画も、私がニコニコ動画に投稿した2016年まで存在していなかった。
そんな私が、最近では「論理国語」をめぐって発信を続ける。なぜか。
私自身の求める「教養」の根幹が「論理国語」的な読み書き能力の向上にあると考えるからだ。
しかし、私の観測範囲でも、「論理国語」(的な国語教育観)への反対意見が今なお多い。特に、文学指導時間の減少に対するものが。
・本を読まない日本人が増えてしまう。
・日本人の心情理解力、想像力、道徳心が育たなくなる。
・日本の文化、伝統に無知な日本人が増える。
など。
私は2020年以降、”文学に対してはドライ”と公言している。
ただ、この手の主張自体には一定の理解を示している。
読解力指導の中心は国語の授業にあるだろう意味で高校の国語教育は推進されるべきだと思うし、国語教育の目的には道徳的要素や文化的要素の涵養も含まれると思うからだ。国際社会だからこそ自国のことをよく知っておく必要があるとも聞く。
(この点、もし語弊のある表現があれば私の国語力不足である)
ただ、私はそれを改善する手段を文学一本に求めることを疑問視する。
はっきりいう。
その手段は、文学でなくともよい。
読解力指導を身に着けたいならば、評論文でもよい。
文化・伝統を育むなら、歴史の授業や歴史評論でよい。
念のため。
私は国語の授業(文学を含む)でその手の指導が無意味とは思っていない。
それを唯一の手段であるように語ることの誤りを指摘したいのだ。
もしかしたら、彼らは言うのかもしれない。
評論も伝記も文学だし、歴史の原典にも文学作品があるでしょ?と。
しかしながら、彼らのいう「文学」の具体例に評論や伝記(あるいは非文学的文章)が入っているのを私は見たことがない。
私が目にするのは『走れメロス』『山月記』『羅生門』『こころ』『舞姫』のようないわゆる近代の定番文学教材の話ばかりであり、ときどき『源氏物語』『徒然草』『土佐日記』『論語』のような古典作品、『マクベス』『罪と罰』のような海外文学を見かけるくらいだ。
要するに、一般論として「文学」を語っている割に、そのサンプルが著しく偏っているのだ。
新課程の国語に反対する方々は口をそろえて「実用文の読解は大事」という。
しかし、彼らが具体的に語る国語の具体例は、決まって「文学」の話ばかり。
曰く、論文作成は高校段階でやる必要はない。(但し、産業界の要請あり)
曰く、高校生になれば実用文は誰でも読める。(但し、PISAの学力調査で指摘あり)
曰く、実用文推進派は文学作品をバカにしている。(ここはノーコメント)
そんな彼らの言説から、「評論も伝記も大事にしている」「実用文も大事にしている」と読み取ることは困難である。
少なくとも私には、彼らの言う「実用文は大事」的な主張は”枕詞”にしか感じられない。
もし、本心で「実用文は大事」と思っているのなら、『論語と算盤』でも『学問ノススメ』でも『沈黙の春』でも、上記のようなステレオタイプ的な文学作品とは異なる作品についてもバランスよく言及すべきと私は考えるが、いかがだろうか。
さらにダメ押しするなら、いわゆる文学にはエロ・グロ・ナンセンスが多分に含まれるものも少なくない。
なかには『バトル・ロワイヤル』のように現実世界の事件に発展したものもあるし、
そこまでいかずとも、『絶歌』や『ちびくろさんぼ』のように社会問題化した作品もある。
(詳しくはないが、こういうのを”文学の毒”と呼ぶらしい)
国語教材としてふさわしくない、というならば私も完全同意である。
私はそうした作品を国語の授業で扱えというつもりはない。
しかしながら、その手の作品だって「文学」のカテゴリに入るのは自明である。
まさか、教育上ふさわしくないから「文学ではない」とは言うまい。
ただ、国語教育で定義する「文学」との整合性をどうつけるのか?とは投げかけておきたい。
さて、ここで「読書は教養を深め、視野を広げる」的な言説について触れよう。
私はこの手の主張には基本的に賛成の立場である。
ただし、これを主張する者が文学ばかりを推す場合、話は変わってくる。
この話をする前に、「機会費用」の話をしておく。
もとは経済学の用語であるが、そう難しい概念ではない。
限られた時間内ですべき作業A,Bがあったとき、
Aに時間を割けば、Bに割くべき時間が減少する、そういう考え方である。
これを読書に適用するとどうなるか。
限られた読書時間を文学に費やせば、それ以外の読書の時間が少なくなる。
もっといえば、インターネットやほかの趣味に時間を費やせば、
文学作品を含めた読書の時間が減少することになる。
義務教育を終えた高校段階では、ある程度は生徒のやりたいことをさせるのが望ましいはずである。
(もちろん、反社会的なこと、倫理的に問題のあることは禁止・制限すべきだが)
そんな高校生に文学ばかりを勧めることが、どういう結果をもたらすか。
これは私の推測でしかないが・・・
間接的に、文学以外をやりたい生徒の時間を奪っているとは考えられないだろうか?
興味がないばかりか、興味があることを間接的に否定され、
逆に文学(読書)への興味を失う結果にはならないだろうか?
これは私の個人的な経験だが、私は中学以降、国語の授業以外ではほとんど文学には手を出さず、自然科学や社会科学系の本ばかりを読んでいた。一部の友人から文学を勧められても読まず、挙句に読書ジャンルの違いから変人扱いされたのは良い思い出である(いや、よくない)。経験上、興味関心が異なっている場合には興味関心を近づけなければ読もうとはしないし、読んだとしても不本意な感想を持って終わる可能性が高いだろう。
少々余談ではあるが、池上彰氏の著書『社会に出るあなたに伝えたい なぜ、読解力が必要なのか?』 (講談社+α新書)からの引用。
それでも小説がどうも苦手だという人には、実在の人物の生涯を綴る「伝記」というジャンルもいいでしょう。 子ども向けの伝記は(中略)偉人の「不都合な真実」が編集でカットされていますが、大人向けのノンフィクションの伝記は、人間の表と裏とを冷静に俯瞰することができます。
また、かりに高校国語の授業で文学に目覚めた場合はどうか。
唐突だが、フランスの社会学者E.デュルケム『道徳教育論』の記述をここで引用する。
(私の大学時代のバイブルの1つである)
多様で揺れ動き、矛盾し合いながら、また相互に絡み合っており、いちいち枚挙するにはあまりに数が多く、多彩な性格を持った個性的人間――このような人間は、フランスの劇作家たちの描いた主人公たちの中には見当たらない。歴史上あるいは架空の人間に具象化されたのは、紋切り型の感情だったのである。(中略)我が国の作家たちが描いて見せる、単純で抽象的な人間感情の背景に、ゲーテのファウストやシェイクスピアのハムレットに見るように、垣間見ても充分きわめることのできない、底知れぬ深淵を感知することは、極めて稀である。(p410-411)
デュルケムの想定しているフランス文学観が、現代の日本文学にどこまで当てはまるかはわからない。ただ、のちの記述で、デュルケムは彼の言う”紋切り型の感情”から脱出する手段に、他国の文学ではなく科学教育(特に生物学)を挙げている。さらに、別のところで芸術(文学を含む)の道徳的意義についても言及されているが、科学教育や歴史教育に比べ軽い位置づけをしている。
この点を踏まえる限りでは、日本文学であったとしてもある程度当てはまっているのでは?と私は推測している。つまるところ、高校レベルの文学(に偏った高校生活)が「教養を深め、視野を広げる」に結びつくとは考え難い、というのが私の個人的見解である。
まして、先述のように、紹介される「文学」のサンプルが偏っているならばなおさらである。
総括しよう。
多感な高校生の興味関心を犠牲(?)にして文学を強制することで、本当に「教養を深め、視野を広げる」が成立するのか??
以上の見解から、私はかなり懐疑的である(エビデンスはないが)。
もし、この手の見解に詳しい方がいたら、ぜひぜひ”論理的な説明”をお願いしたい。
あるいは、反論となるような文献などを紹介いただきたい。
あるいは素朴な感想でも。
「高校国語から文学が消える」という”誇大広告”について #論理国語 #国語教育
前回のブログが思ったほど反響がなかったこと、そして8月下旬からの仕事で多忙だったことからブログから遠のいていた。今回、8月のブログの延長で気になった記事を見つけたため、機会を失わないうちに発信することにした。
まずはこの記事から。執筆は杉山奈津子氏。
私は文学というものに対しドライな人間なので、記事を書いた杉山氏の文学賛美にはほとんど共感できないでいる。例えばこれ。
文学作品は、人間がもつプラスの面だけでなく、心の中にある「醜さ」「狡猾さ」まで扱います。たとえば芥川龍之介の『羅生門』では、「生きていくためには悪事を犯しても仕方がない」という人間のエゴイズムに迫っています。
このようなことを、真正面から堂々と取り扱ってくれる教科は、国語のほかにないでしょう。文学作品は、生きていくうえで大切な部分に焦点をあて、人として成長を促す役割を担っているといえます。
杉山氏は文学以外に人間のエゴに迫る術がないとお考えなのだろうか?
私の読書経験でも、中島義道、ミシェル・フーコーなどの哲学者の著書は人間のエゴを生々しく記述し分析していたのを記憶しているし、日頃の政治・経済系のニュースでも人間のエゴを目にする場面は少なくない。「教科」という縛りで考えたとしても、英語や社会(地歴公民)の授業で扱う場面は多少なりと存在するはずである。
それに、そもそも高校国語に「人間のエゴ」を求める高校生がどこまでいるのか?
杉山氏の文章の後半では『羅生門』などの文学作品(定番教材)が「こうして後世に残っている名作は、残っているだけの理由があるわけです」と結んでいる。しかし、定番教材が残り続ける背景には、教科書会社が安定志向に走らざるを得なくなった側面のほうが大きいと私は見ている。
例えば、川島幸希『国語教科書の闇』(新潮新書)によれば、この手の定番教材が残り続けてきた理由は「長期に亘り編集会議の議論を経ず、ノーチェックなまま教科書会社によって「自動的に」選定され、検定を合格してきたこと」にあるという(位置No.1753)。筆者が教科書会社に試みたインタビュー内容の一例を挙げよう。
私「X社で八〇年代に選定された『こころ』は、その後九五年の教科書でも採られています。この時の編集会議では、別の小説に換える話は出なかったのでしょうか」
A「全く出ませんでした。ほとんど自動的に決まったと記憶しています。」
(中略)
A「ただでさえ保守的な教材選定作業で、こんなに高校生の数が減る時期に新しい挑戦をすることは考えられませんでした。教科書の政策は時間も手間もかかる。それに途中で部分改定はあるけれど、新教科書は約十年使われます。こうした時代には、大胆な採録はどうしてもためらわれてしまいます。」 (以上、位置No.1449-1459)
この著書を読んだうえでの反論の余地はあるだろう。杉山氏がこの手の情報収集をしたうえでどのような反論を頂けるのかは気になるところではある。
だが、今回のブログで私が訴えたいことはそこではない。
杉山氏が「高校国語から文学が消える」という題目をつけたことについてである。
ことは国語教育に関わるのだ。単なる言葉の挙げ足取りとは思わないでいただきたい。
杉山氏が危惧するように、新学習指導要領の改訂で高校国語における文学読解指導の時間が”減る”可能性は高い。高校一年時の必修科目「現代の国語」「言語と文化」(各2単位)を履修した後は、「文学国語」(4単位)を選択しない限り国語の授業で文学に触れる機会が著しく減少することになる。そして、多くの高校では「文学国語」を履修せずに「論理国語」(4単位)を選択するようなカリキュラムを作成していると聞く。現行課程で2年時以降、「現代文B」(4単位)の約半数の時間を文学鑑賞に充当できた点を踏まえれば、「文学が消える」と危機感を煽る言い方をしたくなる気持ちもわかる(共感はしないが)。
※古文・漢文についてはここでは考えないこととする。
しかし、前々回のブログで述べたように、「文学国語」との選択になっている「論理国語」との両立はカリキュラム上は可能である。それにもかかわらず「論理国語」のみのカリキュラムで決断した責任は、情報の錯綜はあれど現場の国語教師にある。新課程で「論理国語」「文学国語」を実施することが決定事項となったこのタイミングで、国語教師に何かしらの提案をせず、「論理国語」賛同者に向けた批判をしても状況がよくなるとは考えづらいのだ(愚痴ならばともかく)。
まとめると、彼女の記事の問題点はこうなる。
- 新課程で「文学国語」より「論理国語」を優先する決断をしたのは、(文科省にも責任はあるが)現場の国語教師である。それにもかかわらず、国語教育関係者への提案をするのではなく、新課程を作成した文科省(そして論理国語推進派の人々)を暗に批判するだけの記事に終始している。
- 上記の目的のためだけに、「高校国語から文学が”消える”」という正確性に書く表現で誇張している(ことばの教育に関する記事にもかかわらず)。
私が彼女の立場で高校の文学指導の充実を望むなら(ついでに、「論理国語」に出てくる高校のレポート指導が不要と思うなら)、
各学校は2年時の「論理国語」履修をやめ、「文学国語」を選択せよ
のような具体性のある発信をするが、それではだめなのだろうか??
(これに対しては、大学入試を踏まえると「文学国語」優先では保護者の支持を得られない、という懸念があるのを聞いたことがある。しかし、杉本氏やこれまで取り上げた新課程国語への批判者の意見に本心で賛同するのであれば、文科省に物申すのと同時に”「文学国語」で大学入試に対応する指導をします”と保護者を説得するような発信をするのが筋だと考える。筆者はどちらかといえば保護者に近い立場なのだからなおさらである。)
付け加えておくと、国語教育におけるこの手の主張は杉山氏が初めてではない。
有名どころだと、文學界 (2019年9月号)の特集「『文学なき国語教育』が危うい」が挙げられよう。
しかし、私の認識では、この手の特集に関わった方々は総じて事実関係の確認が甘い。
学習指導要領の確認も、推進派の主張の引用もほとんどしない。
断片的な情報を鵜呑みにし、まともに裏を取らずに発信する。
(国語教育の専門家ではない私でもその程度の裏取りはする)
さらに、それだけでなく、文学鑑賞の時数減(ゼロではない)を「文学が消える」「文学なき国語教育」のように誇張して状況を煽り立てる。
そして、文科省や論理国語推進派を暗に批判しながら、直接の当事者である国語教育関係者に対して現実的な提案をしない。
辛辣な表現で大変に恐縮ではあるが…
彼らはほんとに「ことばの専門家」としての自覚があるのだろうか??
そう言いたくなるのが私から見た現状である。
本音を言えば、国語教育の専門家ではない私にとって、高校の国語教育がどう変化するか自体は重要ではない。
しかしながら、学業の根幹であるはずの国語についての議論で空回り(に見える状況)があまりに続いている。国語教育関係者から今回のブログのような発信があれば別なのだが、現状では賛否はあれど、”では、現状をどう変えるのか”まで踏み込んだ発言が少なすぎるのだ。挙句の果てに「小説を読まない者は非教養人」という発言まで飛び出す現状は、当事者でないにもかかわらず危惧せざるを得ない。
私の本ブログにおける方針を再掲し、本稿を締めくくりたい。
”私は文学にさほど興味はないが、文学は重要だという者の権利は全力で守る。ただし、文学以外の書物を好む者の権利も同様に守れ”。(元ネタ)
最後に、少しばかり情報提供を。
まずは今回取り上げた杉山氏の著書から(これから読む)。
批判の対象とさせていただいた以上、対価を払うのが礼儀だと思うので。
それから、国語関係学会の要項および動画。
最近はコロナウィルスの影響で学会関係者によるオンライン会議が増え、専門的な議論に直接参加できる場面が増えてきた。その中で有益と思われる情報も得られたのでいくつか紹介する。特に2つ目のリンクにある国語教育のトゥールミンモデルは参考になるのではないか。